マタイによる福音書 5章9節 「平和に向かう道」
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」。有名なフレーズですが、この「平和を実現する人々は、幸いである」とは、「平和」が自然に、また自動的に与えられる現実でないことを示しています。人間には果たして「平和」の道へと押し進めていく能力や知恵などあるのだろうかと思えるのですが、主イエスはこの働きに参与するものこそが「神の子」なのだというのです。「神の子」というのは、神によって良しとされ、祝福され、喜ばれたあり方です。現代の世界は、この意味で主イエスの神を傷つけ、悲しませ、相応しくないあり方なのではないかと思えます。
旧約聖書を通して読むと、戦争や争いなどを肯定的に描いているところが少なくありません。しかし同時に旧約聖書には、戦争を否定し、「覇権主義」を乗り越えようとする神学もあるのです。イザヤやエレミア、ミカなどの預言者たちの働きの中には戦争を食い止めようとする努力が見られるのもまた事実です。戦争によって傷つけられるのは、まず弱い立場に置かれたものであるか分かっているからこそ、その時々の王などの権力に対してモノを言うことで波風を立てていったのです。
創世記において示されているのは、完成された世界としての「エデンの園」です。「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」とあるように、です。神はそこに人間を住まわせることにしたのです。そして「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言葉をかけました。しかし、有名な蛇の誘惑の物語にあるように最初の二人の人間はこの実を食べてしまったのです。
この後、二人はその園から追い出されますが、「善悪の知識の木」から実を食べてしまったことから、様々な人間の問題行動が導き出されるという結果に陥ったと創世記は理解しています。
「善悪の知識の木」の実から得られた「知恵」「知識」のもつ決定的な問題性です。わたしたちは忘れがちですが、この「知恵」「知識」にはプラス面と同時にマイナス面があるのです。とは、いのちを生かすことにも殺すことにも用いることができ、人生の質を高めることも低めることもでき、人権を尊重することも貶めることもできるものです。
この「知恵」「知識」の悪用が現代に至る歴史です。この中にあって、人間の「知恵」や「知識」が膨れ上がること・傲慢さから自由にされ、闇の力から自由にされて真価を発揮できるような「平和を実現する」道への祈りがここにあれば、絶望することはないと信じることができるのではないでしょうか。
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