ヨハネによる福音書 7章40~52節 「対立の中で」
ヨハネ福音書は冒頭で、イエスの出所があくまで天なのだと語っています。このことを「命は人間を照らす光であった」「光は暗闇の中で輝いている」にもかかわらず「暗闇は光を理解しなかった」というのです。この「理解しなかった」現実の具体の一つとして今日の聖書の文脈があるのです。
イエスをキリストとして受け止め理解するためには聖書からの語りかけに耳を傾けなければならないのは当然なのですが、聖書には神・イエスのすべてが描かれているのではないことを常に忘れず、書かれていないことも含め聖書を読む立場へと立ち返る必要がありそうです。
イエスがメシアかどうか議論している人々は、人間の側からの追求や研究などによって神を認識できる、すなわちイエスを理解できるという考えに囚われていたと思われます。しかし理解とは、イエスの側からの歩み寄り、ちょうど逮捕の場面でイエスを探しに来た人々に向かって「わたしである」と進み出たように、主イエスの側からもたらされる信仰です。
信仰にとっての不誠実とは、悪意や偏見によってだけでなく、熱心で真面目で誠実な信仰的な態度にもひそんでいます。メシア、救い主、神である者は、こうあってほしい、あるいはこうでなければならない、という願いは、人間の持つ根本的な神認識にまつわる歪みであり呪いです。
ここから自由にされていく信仰があるのだとの思いに立ち返りたいのです。いのちのパン、いのちの水とは、わたしという存在一切を生かしているイエスそのものの象徴です。イエスの側からのみ信仰は起こされるのです。わたしたちそれぞれのキリストとの出会い方は違いますが、多くの場合、自分がイエスをキリストと信じるという決断をくだし、「分かった」ということから始まっているかのように考えがちです。今日の聖書の文脈で言えば、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」という指摘の後で、議論が交わされその結果イエスがメシアであることは確かだと認められたという展開を想像することもできますが、このような流れがわたしたちの中で起こったゆえの「信じる」なのだと、わたしたちは錯覚しがちです。
確かにヨハネ福音書を読むと「信じる」ことの主体性についての言葉をいくつも見つけることができます。しかし、わたしたちが信じる決断はイエスの側からの「選び」によって導き出されたものであることが前提です。すなわち15章16節にあるようにです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」。この任命において、わたしたちは「信じる」ことへと導かれているのです。
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