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2024年8月

2024年8月25日 (日)

マタイによる福音書 16章18~20節 「心を一つにして求めるなら」 原 直呼

 「19…どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」の最後は、本田哲郎訳も田川建三訳も「わたしもその中にいるからである。」となっており、主イエスが真ん中にいてくださるからこそ、わたしたちは心を一つにすることができるし、そのようにして求めることを神はかなえてくださるのだと読めます。ただ「あなたがたのうち二人が」は、その後の「二人または三人」からも、二人から広がっていくものと考えられます。

 また、本田哲郎神父は「心を一つにして実行に移すことは」と訳しています。実行が伴ってこその祈り。ただ、「実行に移す」ことは必ずしも「みながそろって行動を起こす」こととは限らないと思います。様々な事情で「共に行動する」こともある。行動を起こせる者の背後には「心を一つに」した者たちの支えがある、ということではないでしょうか。

 「心を一つにして求める」ことは、一見心地よく、安心できるような感じですが、実はとても難しいようにも思います。多くの情報にさらされ多様な価値観を持ついっぽうで同質者集団をつくりがちなわたしたちが、仲間意識を超えて、一人ひとりの気持ちをあわせて願う、田川訳で言えば「願い求めることについて地上で一致する」ことは、現実と照らし合わせて想像すると、かなりハードルが高いようにも思えます。

 このハードルを超えようとしている方々のことを、教区平和集会での渡邉さゆりさん(日本バプテスト同盟牧師)による講演で知りました。日本バプテスト同盟とミャンマーキリスト教バプテストは、2019年に宣教協約を結んだそうです。20212月にミャンマーで軍事クーデターが起きたことを受け、渡邊さんたちは毎週金曜夜、「拘束された市民の解放を求め、民主化のために抵抗する人々との連なりの証しとして」オンラインで祈り会を始めました。8月に結成した「アトゥトゥ(いっしょ、共に、の意)ミャンマー」は、活動の特徴のひとつが「抵抗運動としての祈り会を軸に運動を続ける」です。まさに「心をひとつにして求める」です。献金が集まり、送金・支援物資の送付も始まりました。祈りを中心に置いて3年間一度も休まず続け、自然発生的に活動が様々に広がっていくアトゥトゥミャンマーは、聖書の言葉のリアルとして、その存在を示しています。

 アトゥトゥミャンマーから希望を与えられて、困難な道ではあるけれど、神の国の実現を「心を一つにして求める」ことができますようにと、今、あらためて願います。

2024年8月18日 (日)

ヨハネによる福音書 8章3~11節 「主イエスは見ている」

 今日の聖書では、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」とあることから、著者は「性善説」に立っているかのように感じます。「性善説」とは孟子が唱えたとされるあり方で、人間というものは、そもそも善の基本があって、それを発展させ徳性に至るという考え方です。人間はもとが良いものだというのです。しかし、人間はそもそも誰一人として逃れられない根本的で決定的な「罪」が根付いているというユダヤ的な発想からすれば、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」という場面には違和感があります。聖書のテキストを好意的に読めば、「こうあればいいのに」という理想的な場面として著者は描きたかったのでしょうか。

 わたしたちを巡る現代社会のリンチの発想は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」ではありません。気に入らないことなら何でもいいとばかりに寄って集って標的を定めたら、とことん詰めてヘイトスピーチで叩き潰していこうとする空気が満ち溢れています。我先に石を投げつけることが主流のようになっているのではないでしょうか。インターネットの発達によって、石を投げつけるにしても匿名性で守られている以上、自らの攻撃的なあり方は表に現れにくいし、このことによって無責任に攻撃をエスカレートさせることもデマをでっち上げて煽り立てることもできるようになっているのです。

 ここでは、人間の持つこのような攻撃性を無化しつつ、その女性の立場を、また石を投げつけようとする立場を、沈黙によって問う主イエスの姿勢が、わたしたちのところにも染み渡ってくることへの期待をも持つのです。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語り、その後は沈黙し「身をかがめて地面に書き続けられた」、この言葉において、この女性に対して、また同時にその場にいる人たちに対して主イエスの姿からの迫りがあることを確認したいと思います。この場にいる人たちが、自分たちの「正義」に縛られた「悪意」に気づくことで自らが正されて「一人また一人と、立ち去って」行ったこと、この意味において自らに非を認めることができたこと。そして、この女性には、誰からも罪に定められることなく、「行きなさい」と自由に生きるために前進していく力が与えられたこと。これらを確認しておきたいのです。いずれの道も決して安易なことではありません。しかし、沈黙をもって主イエスは自らの姿を思い描くことへと導き、方向を与えてくださることを信じることはできます。主イエスは支える沈黙の力として働かれるはずなのです。ここに信頼しながら、自らの姿が明らかにされつつ、主イエスにあるところの相応しさの道を歩みたいと願うのです。沈黙の主イエスの見守りに信頼しつつ、歩んでいきましょう。

2024年8月12日 (月)

マタイによる福音書 5章9節 「平和に向かう道」

 「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」。有名なフレーズですが、この「平和を実現する人々は、幸いである」とは、「平和」が自然に、また自動的に与えられる現実でないことを示しています。人間には果たして「平和」の道へと押し進めていく能力や知恵などあるのだろうかと思えるのですが、主イエスはこの働きに参与するものこそが「神の子」なのだというのです。「神の子」というのは、神によって良しとされ、祝福され、喜ばれたあり方です。現代の世界は、この意味で主イエスの神を傷つけ、悲しませ、相応しくないあり方なのではないかと思えます。

 旧約聖書を通して読むと、戦争や争いなどを肯定的に描いているところが少なくありません。しかし同時に旧約聖書には、戦争を否定し、「覇権主義」を乗り越えようとする神学もあるのです。イザヤやエレミア、ミカなどの預言者たちの働きの中には戦争を食い止めようとする努力が見られるのもまた事実です。戦争によって傷つけられるのは、まず弱い立場に置かれたものであるか分かっているからこそ、その時々の王などの権力に対してモノを言うことで波風を立てていったのです。

 創世記において示されているのは、完成された世界としての「エデンの園」です。「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」とあるように、です。神はそこに人間を住まわせることにしたのです。そして「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言葉をかけました。しかし、有名な蛇の誘惑の物語にあるように最初の二人の人間はこの実を食べてしまったのです。

 この後、二人はその園から追い出されますが、「善悪の知識の木」から実を食べてしまったことから、様々な人間の問題行動が導き出されるという結果に陥ったと創世記は理解しています。

 「善悪の知識の木」の実から得られた「知恵」「知識」のもつ決定的な問題性です。わたしたちは忘れがちですが、この「知恵」「知識」にはプラス面と同時にマイナス面があるのです。とは、いのちを生かすことにも殺すことにも用いることができ、人生の質を高めることも低めることもでき、人権を尊重することも貶めることもできるものです。

 この「知恵」「知識」の悪用が現代に至る歴史です。この中にあって、人間の「知恵」や「知識」が膨れ上がること・傲慢さから自由にされ、闇の力から自由にされて真価を発揮できるような「平和を実現する」道への祈りがここにあれば、絶望することはないと信じることができるのではないでしょうか。

 

2024年8月11日 (日)

ヨハネによる福音書 7章40~52節 「対立の中で」

ヨハネ福音書は冒頭で、イエスの出所があくまで天なのだと語っています。このことを「命は人間を照らす光であった」「光は暗闇の中で輝いている」にもかかわらず「暗闇は光を理解しなかった」というのです。この「理解しなかった」現実の具体の一つとして今日の聖書の文脈があるのです。

 イエスをキリストとして受け止め理解するためには聖書からの語りかけに耳を傾けなければならないのは当然なのですが、聖書には神・イエスのすべてが描かれているのではないことを常に忘れず、書かれていないことも含め聖書を読む立場へと立ち返る必要がありそうです。

イエスがメシアかどうか議論している人々は、人間の側からの追求や研究などによって神を認識できる、すなわちイエスを理解できるという考えに囚われていたと思われます。しかし理解とは、イエスの側からの歩み寄り、ちょうど逮捕の場面でイエスを探しに来た人々に向かって「わたしである」と進み出たように、主イエスの側からもたらされる信仰です。

 信仰にとっての不誠実とは、悪意や偏見によってだけでなく、熱心で真面目で誠実な信仰的な態度にもひそんでいます。メシア、救い主、神である者は、こうあってほしい、あるいはこうでなければならない、という願いは、人間の持つ根本的な神認識にまつわる歪みであり呪いです。

 ここから自由にされていく信仰があるのだとの思いに立ち返りたいのです。いのちのパン、いのちの水とは、わたしという存在一切を生かしているイエスそのものの象徴です。イエスの側からのみ信仰は起こされるのです。わたしたちそれぞれのキリストとの出会い方は違いますが、多くの場合、自分がイエスをキリストと信じるという決断をくだし、「分かった」ということから始まっているかのように考えがちです。今日の聖書の文脈で言えば、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」という指摘の後で、議論が交わされその結果イエスがメシアであることは確かだと認められたという展開を想像することもできますが、このような流れがわたしたちの中で起こったゆえの「信じる」なのだと、わたしたちは錯覚しがちです。

 確かにヨハネ福音書を読むと「信じる」ことの主体性についての言葉をいくつも見つけることができます。しかし、わたしたちが信じる決断はイエスの側からの「選び」によって導き出されたものであることが前提です。すなわち1516節にあるようにです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」。この任命において、わたしたちは「信じる」ことへと導かれているのです。

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