ヨハネによる福音書 6章22~27節 「いのちの糧」
26節を田川建三は次のように解釈しています【著者の眼から見れば、「徴」を見てイエスのことを持ち上げるような人々よりも、奇跡がどうこうではなく、素朴に、イエスが与えてくれたパンを食べて満足した、という人々の方が安心して会話できる相手だ、ということになる】。つまり、主イエスと一緒にパンを食べること、そして満腹することを全面的に承認する方向です。いわば、主イエスの食卓における祝福を肯定し、観念化や精神化に陥らず、単純に食べて満足している中に平安があるという発想があるのだと、わたしは受け止めています。
この意味で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」この言葉を理解したいと思うのです。そしてさらには「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いに対する答えとして「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」という世界観に向かっていきたいと願っています。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」この言葉を、永遠の命に与るためと信仰的に閉ざされた理解をするのがおそらく多数派であろうことは承知しています。しかし、通常の食卓と聖餐という儀式の食卓を分離するのではなく、主イエスは共なる食卓にこそ「永遠の命に至る食べ物」は備えられていること、その食卓を「聖餐」から「日常」へと取り戻すことの必要性を感じています。
人が生きていくこと、いのちを保持するためには様々なものが必要です。特に、単純に食べることが大切です。何かしらの食べ物を食べることによって消化・吸収し排泄します。吸収された食べ物は血となり肉となり、身体を維持するエネルギーとなります。今、ここで生かされてあるいのちは食べることによって支えられているのです。辺見庸が、世界各地の日常食を食べる体験を書いた『もの食う人びと』というルポがあります。そこには、腐ったもの、放射能に汚染された料理も含まれます。そして「食べられない」現実も。ここに描かれている食べるという営みが「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という言葉と共鳴しているように、わたしには思えてくるのです。「永遠の命に至る食べ物」は、「すべての人が満腹」という日常の食卓の先にある、と思えるのです。主イエスは誰と食卓を共にしたのか、このことを常に軸にして考えたいと思います。
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