« マタイによる福音書 6章25~34節 「花や鳥のように」 | トップページ | ヨハネによる福音書 4章21~26節 「御心と、その業」 »

2024年6月23日 (日)

ヨハネによる福音書 4章39~42節 「自分で聞いて」

 今日の箇書(先週の続き)では、ヤコブの井戸で出会い「渇れない水」の対話をしたサマリア女性とすれ違いに弟子たちが戻ってきます。そして、彼女と水をテーマにして話し始めたのとは対照的に食べ物のことが話題となります。

 サマリア女性には主イエスとの対話において解放の出来事が起こりました。彼女は差別され追いやられ、自分で自分をさらに不自由にさせられていました。しかし、主イエスとの出会いによって、生き直しへと導かれる出来事が起こったのです。「決して渇かない」あり方です。自ら歩み出てくださる主イエスが生かす水として働かれたのです。今まで世間から、またその世間によって自分でも自身を縛り付けていた状態から自由にされたのです。このことが「水がめをそこに置いたまま町に行」ったと記されていることから分かります。彼女は新しい歩みを始めることができたのです。主イエスと出会うこととは新しい生き方へと立ち上がり歩み出すことができるのだと言えます。

 しかし、戻ってきた弟子たちは、ずっと主イエスの傍にいて伝道活動に参加し始めていたはずなのに、主イエスと出会い損ねているようです。食事の話題をきっかけに主イエスが「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と弟子たちに対して批判的な言葉を連ねていくからです。弟子たちが「刈り入れまでまだ四か月もある」という態度でなすべきことを怠っているし、伝道の成果があったとしても、それは弟子たちの労苦によるものではないのだという指摘があるのです。伝道活動は前進しているのかもしれないけれど、それは「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」からだと言うのです。出会い損ね無理解なままの弟子たちと主イエスとの出会いによって変えられたサマリア女性が対比されているのです。

 わたしたちは、今日の聖書の文脈においてサマリア女性であるのか、それとも弟子たちであるのかを省みる必要があるということなのでしょうか。サマリア女性に倣うならば、まずわたしたちにとっての、置き去りにすべき水がめは何なのかを、祈りつつ知らされることが必要かもしれません。そして、主イエスがまことの水であり、まことの食べ物であることを今一度真剣に向かい合うことの求めがあるように思われます。主イエスがすでに語り今も語り続けておられるところの招きと導きの言葉が聖霊においてあるということ。ここに望みをつなぎながら、今日から明日へと聖書の言葉に導かれ祈りつつ歩んでいきたいと願うのです。サマリア女性を支えている主イエスのみを根拠として「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」という方向へと絶えず修正しながら、信仰者として生きていきたいと願います。

« マタイによる福音書 6章25~34節 「花や鳥のように」 | トップページ | ヨハネによる福音書 4章21~26節 「御心と、その業」 »

ヨハネによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« マタイによる福音書 6章25~34節 「花や鳥のように」 | トップページ | ヨハネによる福音書 4章21~26節 「御心と、その業」 »

無料ブログはココログ