ヨハネによる福音書 3章1~15節 「新しく生まれる」
ニコデモが主イエスとその仲間たちに敵対するのではなくて、より深く理解したいという願いをもっており、共感し、行動したことは分かります。しかし、やはりユダヤ教のファリサイ派の指導者・有力者としての立場からは自由ではなかったのでしょう。だから、主イエスの語るところの新しく生まれるというイメージを理解できなかったのだと思うのです。神から与えられた律法、これを守りつつ日々の暮らしを堅実に過ごすことによって神の栄光を表すことができると考えていたのでしょう。幼いころから学びつつ実践してきた律法の墨守、これ以外に生きる道など考えられないし、可能性もない。しかし、律法から導かれるところのメシアがイエスかもしれないと迷いつつも、これまでの律法に関する学びと行いによって蓄積してきたものを捨て去ることはできなかったのでしょう。
主イエスがニコデモに伝えたかったこと、それはニコデモが律法において、これまで積み重ねながら研鑽してきたこと一切を一度手放すことではないでしょうか。律法主義には、どこか不信仰があるのです。神の律法という、教えないしは掟に対して、自分の側から神に向かう矢印に支配されてしまう傾向に溺れてしまうことがあるからです。主イエスの言うところの新しく生まれる方向とは、神という向こう側から自分に向かってくる矢印において、新たに自分を見出す方向へと展開することではないでしょうか。
8節で主イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」。このように語ります。当時のヘブライ語でもギリシャ語でも、風も息も霊も同じ言葉です。古代の言葉感覚からすれば使い分けはしていないということです。風がびゅうっと吹いていれば、神の息も霊も同じように動いている感覚だったのです。神の意志、その願いによって新しく生まれることは、律法を守れば救われ、破ればさばかれるという因果応報的なものなどでは決してないということです。思いのままに吹かれる、神の息、風、聖霊の側からの働きかけに身を任せ、委ねていく中での主体的な決断を獲得していくことなのではないでしょうか。律法という教えないしは掟に対して忠実であるという人間の側からの働きによるのではないのです。思いのままに吹く、神の息、風、聖霊が働かれていることが、主イエスにおいて事実となっていることに委ねていくところに、新しく生まれるという出来事が起こるのです。このことをヨハネ福音書は、歴史の初めから終わりまですべての時にわたって主イエスの働きが共にあることを忘れるなと呼びかけているのでしょう。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」この切実な問いかけを粉砕するような力としての神の言葉として、新しく生まれることが何度でも引き起こされるという希望としての信仰があるのではないでしょうか。ここに向かうようにとの招きをわたしたちは受けているのではないでしょうか。
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