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2024年6月

2024年6月23日 (日)

ヨハネによる福音書 4章21~26節 「御心と、その業」

 主イエスが水を飲ませてほしいと語りかけたのは、穿った見方をすれば、この女性と、一人の人間と一人の人間の対等な関係を作り出すための一つの口実だったのかもしれません。この女性は、様々な事情によって自分自身も、社会的にも、一体何者なのかという点において引き裂かれた存在であったことがこの後の対話で明らかにされていきます。水を飲ませてほしいと言った主イエスはさらに「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と語ります。これに対し彼女は答えます「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。引き裂かれた自分自身の中から振り絞るようにして出した言葉でしょう。今生きていることの充実感や喜びが、この村の共同体の中で得られないという「渇き」は、ヤコブの井戸の水を飲むことでは決して癒されることないのだとの理解が起こったのではないでしょうか。主イエスとの対話の中で、人の目や、その背後にあるサマリヤ教の規律を与えたとされる神の、その冷酷さや残酷さに打ちひしがれることのない、しなやかで柔らかで温かいいのちとしての水に気づかされたのでしょう。このように語れるのは預言者なのだろうと感じたのです。

 さらに彼女の問いに対する主イエスの答えは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることではなく、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」とあります。この言葉は、将来に担保された救いよりもむしろ、今を神の前にあってどう生きるかが問われているとの問題提起です。生き直しの時は今なのだ、そのための水を与えるという宣言が出来事となっているのです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この道の確かさをこの女性は確認できたのでしょう。

 サマリアの女性は引き裂かれた状態にさらされています。差別され追いやられ、自分で自分をさらに不自由にさせられていたのです。主イエスとの出会いによって、その彼女に生き直しへと導く出来事が起こったのです。「決して渇かない」あり方です。「あなたと話をしているこのわたしである」という自ら歩み出てくださる主イエスが生かす水として働かれたのです。今日の聖書は、このサマリアの女性を「渇き」から生き返らせた出来事が、わたしたちと決して無縁ではないと語りかけているのではないでしょうか。

2024年6月 9日 (日)

マタイによる福音書 6章25~34節 「花や鳥のように」

~「花の日・子どもの日」子どもとおとなの合同礼拝~

 鳥も花も、すべてのいのちは神さまから大切にされたいのちです。もちろんわたしたちも、です。だから何も心配はいらないよ、「大丈夫だよ」「ここで生きてごらん、守ってあげるよ」、このように今ここにいる一人ひとりに向かって語りかけてくださっているのです。「空の鳥、野の花」と同様、わたしたちのそのいのちが祝福され、そのありようが主の目から見れば美しいと宣言なさっているのです。

 皆さんは、もしかしたら「今のうちにちゃんと勉強しておかないとおとなになったら困るよ」とか「今のうちからちゃんとルールを守れる人になろうね」と家や学校で言われているかもしれません。それは間違ったことではないでしょう。でも、実はそれだけが正しいことではないのです。将来のために今日を生きるばかりでは、つらくなってしまいます。「いつか素敵な良い人になるために、今、がんばる」ことがなくても、今、そのままであなたは素晴らしいのです。今日を生きることが神さまに応えていくことなのです。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」この言葉を聞いて、少しでも明るい気持ちになれたらいいなと思います。すべての苦労がなくなるわけではありません。今日という日に与えられた苦労はなくならないのです。しかし、明日や将来に負わなければならない苦労を今のことにする必要はないのです。今日を生き抜こうじゃないかと自分から行動する気持ちになれるのです。

 主イエスはもちろん、わたしたちの毎日の辛い時や悲しい時のことを全部知っています。その上での言葉なのです。今日ダメだったから明日もダメなのだと決めつけしまうことはやめようよ、ということです。明日になればきっと何か新しいこと、希望が現われてくるかもしれないよ、ということです。きっと、良い方向に向かうだろうという考え方を教えてくれているのです。たとえば、ジュースをコップに半分飲んだとき、「半分しか残っていない」と考えるより、「あと半分も残っている」と考えることから始めていこうよ、という考えを主イエスは呼びかけているのです。

 テレビなどで災害で困っている人たちのことや戦争や紛争で恐怖の中におかれている人たちのことを知らされる時、その人たちは明日のことを思い悩まずにいられないだろうとの思いがよぎります。確かにそのことを思うと本当に苦しいです。しかし、誤解を恐れずに言えば、その人たちの「明日」はその人たちのものです。わたしたちは、わたしたち自身が明日生きる希望をイエスさまから得て、かの人たちが苦しまない社会を作り出す力を備えていくべきなのです。主イエスは、小さく弱くされた人たちに対して何よりもまず寄り添いつつ生きることを目指した方です。ですから、わたしたちは、困難な場に主イエスが共にいてくださる、このような希望があると信じたいと思います。

2024年6月 2日 (日)

ヨハネによる福音書 3章1~15節 「新しく生まれる」

 ニコデモが主イエスとその仲間たちに敵対するのではなくて、より深く理解したいという願いをもっており、共感し、行動したことは分かります。しかし、やはりユダヤ教のファリサイ派の指導者・有力者としての立場からは自由ではなかったのでしょう。だから、主イエスの語るところの新しく生まれるというイメージを理解できなかったのだと思うのです。神から与えられた律法、これを守りつつ日々の暮らしを堅実に過ごすことによって神の栄光を表すことができると考えていたのでしょう。幼いころから学びつつ実践してきた律法の墨守、これ以外に生きる道など考えられないし、可能性もない。しかし、律法から導かれるところのメシアがイエスかもしれないと迷いつつも、これまでの律法に関する学びと行いによって蓄積してきたものを捨て去ることはできなかったのでしょう。

 主イエスがニコデモに伝えたかったこと、それはニコデモが律法において、これまで積み重ねながら研鑽してきたこと一切を一度手放すことではないでしょうか。律法主義には、どこか不信仰があるのです。神の律法という、教えないしは掟に対して、自分の側から神に向かう矢印に支配されてしまう傾向に溺れてしまうことがあるからです。主イエスの言うところの新しく生まれる方向とは、神という向こう側から自分に向かってくる矢印において、新たに自分を見出す方向へと展開することではないでしょうか。

 8節で主イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」。このように語ります。当時のヘブライ語でもギリシャ語でも、風も息も霊も同じ言葉です。古代の言葉感覚からすれば使い分けはしていないということです。風がびゅうっと吹いていれば、神の息も霊も同じように動いている感覚だったのです。神の意志、その願いによって新しく生まれることは、律法を守れば救われ、破ればさばかれるという因果応報的なものなどでは決してないということです。思いのままに吹かれる、神の息、風、聖霊の側からの働きかけに身を任せ、委ねていく中での主体的な決断を獲得していくことなのではないでしょうか。律法という教えないしは掟に対して忠実であるという人間の側からの働きによるのではないのです。思いのままに吹く、神の息、風、聖霊が働かれていることが、主イエスにおいて事実となっていることに委ねていくところに、新しく生まれるという出来事が起こるのです。このことをヨハネ福音書は、歴史の初めから終わりまですべての時にわたって主イエスの働きが共にあることを忘れるなと呼びかけているのでしょう。

 「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」この切実な問いかけを粉砕するような力としての神の言葉として、新しく生まれることが何度でも引き起こされるという希望としての信仰があるのではないでしょうか。ここに向かうようにとの招きをわたしたちは受けているのではないでしょうか。

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