ヨハネ14:8~15「どこに御父は示されるのか」
フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と主イエスに願いましたが、主イエスではない何か他の、もっと分かりやすい神を求めていたのかもしれません。フィリポが、父なる神に対するどのようなイメージをもっていたのかは分かりません。しかし、目の前にいる主イエスを父なる神とは認めていなかったことは確かなのでしょう。フィリポの中で、自分の願い、頭の中で膨れ上がった神々しい神のイメージと目の前にいる主イエスの存在とが結ばれず、別のことだと考えたのでしょう。神が人となっている主イエスの姿がまことであること、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことを受け止められなかったのでしょう。神は天においでになり、この地上において愛をもって働かれる生きた神としての主イエスを認められなかったのでしょう。
このフィリポの神を見て満足したいという願いには、信仰を観念の世界に追いやる思想というか信仰理解があります。<「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」がゆえの人間>を見ないことによって、信仰が普段の生活から乖離していくのです。
神が肉となった主イエスの愛の言葉と業がまことであるなら、信じ従うものには、その反射としての応答、態度決定、証しが求められるであろうと思います。14章12節の「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」この方向は、「山上の説教」に生きることであろうし、その道は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」というヘブライ人への手紙11章1節の言葉の共鳴に生きることでもあろうと思います。この12節を本田哲郎神父は次のように翻訳し解釈しています。「はっきり言っておく。わたしに信頼してあゆみを起こす人は、わたしがしている生き方をするようになり、しかも、もっとすぐれた生き方をするようになる。わたしが父のもとに行くからである。」と。人となった神である主イエスの愛を受けて歩む、現代の弟子である教会は、この主イエスにおいてこそ御父は示されている、神の御旨があるのだと信じることができるのです。愛が枯れ果てつつある時代と世界にあって、主イエスに導かれている愛の道を求め続けていくこと、ここに教会の使命があるのではないでしょうか。ほんの一滴であっても希望をつなぐことがあるのだと主イエスの求めと導きがあるのだと信じたいのです。
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