ヨハネによる福音書 14章15~27節 「聖霊の賜物」
わたしたちの眼前には絶えず困難があるのではないでしょうか。詩編121では「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」という問いにあるように、です。この詩は「都に上る歌」と題されていますから、都であるエルサレムに詣でるための旅の初めが描かれてはいます。しかし、広い意味での人生の旅路として読めば、荒れ果て、過酷な現実としての山々を仰ぐとき、恐れや不安など様々な思いが沸き上がってきて、はじめの一歩を踏み出す勇気を出すことに戸惑っている、そんな言葉として響いてきます。しかし、詩編121の2節からは「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」と主の守りの確かさへの確信へと展開していくのです。この展開をわたしたちは、主イエスとしての聖霊が「弁護者」とか「真理の霊」として「今ここで」働かれていると信じることができるのです。
ハイデルベルク信仰問答には次のようにあります。
問53 「聖霊」についてあなたは何を信じていますか。
答 第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしたちに与えられたお方であり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。
第一にのところでは、聖霊が神、イエスと同様に永遠の神であるとわれ、第二で信仰において恵み、慰めであり、共にいてくださると言われています。主イエスを見ることはできないけれども、聖霊として「今ここで」確実に生きておられ、永遠に共にいてくださるのだと言われるのです。このあり方をもって、主イエスは平和と呼ばれる状態へと向かってわたしたちを導くのです。わたしたち自身の願いなどではなくて、御心が顕わにされていく中にあって、苦難の中にさえ意義や意味、生きる価値、人生の質の充実が待ち受けていることを信じることができるのではないでしょうか。
わたしたちの日常の生活感覚、日々の暮らしの中で、今日も聖霊である「弁護者」とか「真理の霊」として「今ここに」主イエス・キリストが共にいてくださるのです。このことを信じる者として聖霊について「この方はわたしたちに与えられたお方であり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる」とのハイデルベルク信仰問答の指摘に共鳴を見出したいと願っています。
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