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2024年5月

2024年5月26日 (日)

ヨハネ14:8~15「どこに御父は示されるのか」

 フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と主イエスに願いましたが、主イエスではない何か他の、もっと分かりやすい神を求めていたのかもしれません。フィリポが、父なる神に対するどのようなイメージをもっていたのかは分かりません。しかし、目の前にいる主イエスを父なる神とは認めていなかったことは確かなのでしょう。フィリポの中で、自分の願い、頭の中で膨れ上がった神々しい神のイメージと目の前にいる主イエスの存在とが結ばれず、別のことだと考えたのでしょう。神が人となっている主イエスの姿がまことであること、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことを受け止められなかったのでしょう。神は天においでになり、この地上において愛をもって働かれる生きた神としての主イエスを認められなかったのでしょう。

 このフィリポの神を見て満足したいという願いには、信仰を観念の世界に追いやる思想というか信仰理解があります。<「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」がゆえの人間>を見ないことによって、信仰が普段の生活から乖離していくのです。

 神が肉となった主イエスの愛の言葉と業がまことであるなら、信じ従うものには、その反射としての応答、態度決定、証しが求められるであろうと思います。14章12節の「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」この方向は、「山上の説教」に生きることであろうし、その道は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」というヘブライ人への手紙11章1節の言葉の共鳴に生きることでもあろうと思います。この12節を本田哲郎神父は次のように翻訳し解釈しています。「はっきり言っておく。わたしに信頼してあゆみを起こす人は、わたしがしている生き方をするようになり、しかも、もっとすぐれた生き方をするようになる。わたしが父のもとに行くからである。」と。人となった神である主イエスの愛を受けて歩む、現代の弟子である教会は、この主イエスにおいてこそ御父は示されている、神の御旨があるのだと信じることができるのです。愛が枯れ果てつつある時代と世界にあって、主イエスに導かれている愛の道を求め続けていくこと、ここに教会の使命があるのではないでしょうか。ほんの一滴であっても希望をつなぐことがあるのだと主イエスの求めと導きがあるのだと信じたいのです。

2024年5月19日 (日)

ヨハネによる福音書 14章15~27節 「聖霊の賜物」

 わたしたちの眼前には絶えず困難があるのではないでしょうか。詩編121では「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」という問いにあるように、です。この詩は「都に上る歌」と題されていますから、都であるエルサレムに詣でるための旅の初めが描かれてはいます。しかし、広い意味での人生の旅路として読めば、荒れ果て、過酷な現実としての山々を仰ぐとき、恐れや不安など様々な思いが沸き上がってきて、はじめの一歩を踏み出す勇気を出すことに戸惑っている、そんな言葉として響いてきます。しかし、詩編121の2節からは「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」と主の守りの確かさへの確信へと展開していくのです。この展開をわたしたちは、主イエスとしての聖霊が「弁護者」とか「真理の霊」として「今ここで」働かれていると信じることができるのです。

ハイデルベルク信仰問答には次のようにあります。

問53 「聖霊」についてあなたは何を信じていますか。

答  第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしたちに与えられたお方であり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。

 第一にのところでは、聖霊が神、イエスと同様に永遠の神であるとわれ、第二で信仰において恵み、慰めであり、共にいてくださると言われています。主イエスを見ることはできないけれども、聖霊として「今ここで」確実に生きておられ、永遠に共にいてくださるのだと言われるのです。このあり方をもって、主イエスは平和と呼ばれる状態へと向かってわたしたちを導くのです。わたしたち自身の願いなどではなくて、御心が顕わにされていく中にあって、苦難の中にさえ意義や意味、生きる価値、人生の質の充実が待ち受けていることを信じることができるのではないでしょうか。

 わたしたちの日常の生活感覚、日々の暮らしの中で、今日も聖霊である「弁護者」とか「真理の霊」として「今ここに」主イエス・キリストが共にいてくださるのです。このことを信じる者として聖霊について「この方はわたしたちに与えられたお方であり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる」とのハイデルベルク信仰問答の指摘に共鳴を見出したいと願っています。

2024年5月 5日 (日)

ヨハネによる福音書 16章25~33節 「しかし、勇気を出しなさい」

 「わたし」が、「わたし」に対しても、あなたに対しても、誰かないし社会に対しても、自立した存在として生きていないからなのではないかと聖書から問われているのではないでしょうか。「あなたがたには世で苦難がある」というその現実から逃げたいがための行動を選び取ってしまっているのではないかとの反省があります。「わたし」が「わたし」であるために「あなたがたには世で苦難がある」現実を引き受けていく道をあえて選び取るようにと、主イエスは招き促しているのではないかと思うのです。

 「わたし」が「わたし」であることにおいて正直であるか、「わたし」があなたとの関係において誠実な意思表明を行っているか、誰かないしは社会において平和と正義を実現する方向にあるか、これらを自己吟味する促しとして「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」という言葉があるのでしょう。できることなら苦難は避けたいというのが人間の本性でしょう。個人としても集団としても妥協してしまう闇の世界観に飲み込まれてはいないか、自らが引き受けるべき苦難から逃げてはいないか、このように問われているのではないでしょうか。この問いは、厳しさを伴うものではあるでしょうが、この言葉を語っているのは、他でもない主イエス・キリストであることを忘れてはなりません。わたしたちの「自立」を支えるのは「わたしは既に世に勝っている」として世の初めから終わりまでのすべてを支配する主イエス・キリストであるのだから、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。」という言葉は、ただの厳しい命令ではないのです。まず、「わたし」が「わたし」となり、あなたがあなたとなり、わたしたちがわたしたちとなる、自立を支える生き方への招きがあるのです。

 主イエス・キリストは今日の教会に向かっても語り続けておられます。パレスチナやウクライナはもとより日本国内においてもヘイトスピーチやハラスメント、貧困など苦難は山積みです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」。主イエス・キリストは勝利者である、このことを根拠にした自立として平和と正義を求める歩みを、正直さをもって何度でも最初から始めていくことができるように願っておられるのではないか、そう信じるのです。

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