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2024年4月28日 (日)

ヨハネによる福音書 15章18~27節 「証し人の使命」

 ヨハネ福音書は「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」と語ります。この世がキリスト者と教会を憎むのは、それ以前に主イエスに対する憎しみがあるからなのだというのです。それはそうでしょう。主イエスは、この世から憎しみ抜かれる仕方で十字架へと追いやられた方だからです。主イエスが憎まれたのは、当時の常識ある人たちの「良心的な正しさ」を根拠として排除された人の仲間となり、友となったことと無関係ではありません。人間の社会は悲しいことに、差別や抑圧を伴った排除によってバランスを保つように権力が統治したがる傾向があるからです。主イエスの時代の常識からすれば、律法を守らない・守れない人たち、律法によって「汚れ」の烙印の押された人たちを差別し排除することは正義でした。また、ユダヤ教徒以外の人々と接触する徴税人も差別の対象とされました。いわば、主イエスは律法という基準によって差別され排除される人たちと交わることによって、治安を乱す危険人物とみなされていたのです。宗教的・政治的な権力からすれば、抹殺する必要があり、必然性があったのです。

 主イエスは、差別や抑圧を行う根拠としての憎しみを、いわば愛によって乗り越えようとしつつ歩まれたのです。憎しみのもたらすものは、他者を切り捨て排除することです。無視するとか暴言を吐くとか暴力を振るうということの根っことなるところの憎しみをもつことは、その人の人権、いのちそのものを全面的に否定することに他なりません。主イエスは愛することにより、憎しみを打ち砕き、お互いのいのちの尊さを取り戻す闘いを貫かれたのです。

 この主イエスに信じ従う者は、この世の常識が大切だと判断することではなく、主イエスが大切にするところこそを選び取るのです。その時、わたしたちには憎しみに対して怖れる必要のないことが1526節で知らされています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」と。さらには27節の「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」という道への招きの途上にあることも同時に知らされるのです。この世界は憎しみに満ち満ちています。しかし、主イエスを信じ従う者には証し人としての使命が与えられているがゆえに、今ここでの自分の課題に真摯に向き合っていくことができるのではないでしょうか。

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