マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門」
人間の人間の社会には「同調圧力」というものが存在します。意見や行動の正しさや間違いについて自分で理由を考えることを捨て、少数派になって孤立することを怖れて多数派に合わせるよう強制する無言の圧力のことです。その場の空気を読むことで波風を如何にして立てないか、目立たないでいられるのかという消極的なものもあるでしょう。しかし、この消極的なものであっても、ハンナ・アーレントの言うところの「悪の凡庸さ」と決して無関係でないと思います。ホロコーストという世界最大級の悪とされる事柄でも、ごく平凡な人間が動機も信念も邪悪な心も悪魔的な意図もなしに行いうるとしたのです。
わたしたち自身も、行動や判断など一つひとつの態度決定が、この「悪の凡庸さ」につながる、同調圧力によって支えられていないかを自己検証する必要を感じます。「狭い門から入」るためには、「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」から自由にならなくてはならないことが知らされます。大変難しいと感じるのではないでしょうか。だから「狭い門」なのです。わたしたちの前には「広い門」が大きな口を開けて待ち構えていることを知らなければなりません。
主イエスの生涯は御自身が「狭い門」をいくつも入り続け、結果、十字架による処刑となりました。しかし、よみがえりにより勝利したことに希望を抱くわたしたちは、あえて「狭い門」を選ばなくてはならないのです。そのための課題は「従順」にあるのではないかと思うのです。「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」の根っこに「従順」が横たわっているように感じます。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あった「従順」とは違います。主イエスの「従順」とは、神への「従順」です。神に基づく正義のゆえにより小さくより弱くされた人々と同じ水平に立ち、喜びも悲しみに対しても響き合いながら歩んだのです。主イエスの「従順」の姿は、権力者たちとの論争の場面や両替人の机をひっくり返すような振る舞いにおける「従順」なのです。誰かをないがしろして成り立っている社会に対する抗議としての「従順」とでも呼んだらよいのでしょうか。ですから、わたしたちの安易な「従順」と主イエスの「従順」とは区別されるべきだと考えます。
自分を屈服させようとする暴力的な意思を、恩恵であるとか愛情であるとかと勘違いする仕方で「従順」になってしまうあり方は「広い門に入」ってしまっている状態だと言えます。この時、共感する相手が誰なのか、その人たちはどのような状況に置かれているのか、ということが重要です。被抑圧者と共に抑圧者に対して波風を立てていくという、まさに主イエスの歩みと重なるあり方にこそ、「共感」というイメージが相応しいのです。決して「幸い」と客観的に呼ばれるはずのない人たちに向かって、生きることの喜びにおいての「共感」に生きた主イエスの姿と重なります。たとえ困難があり、多数派に取り囲まれようとも、あえて「狭い門」を選び取る勇気と愛をもって生きる希望の道へと主イエスは招いているのではないでしょうか。困難な門であっても、なさねばならないことと時はあるのです。
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