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2024年3月10日 (日)

マタイによる福音書 6章34節 「主イエスにある楽天性」

 主イエスは語りかけています。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と。今日考えて解決するなら考えればいい。しかし、今日考えても解決できないことは同じ言葉の繰り返しや「どうしたらいいのか」という問いだけがグルグル回って時間が過ぎていき、身も心も消耗するだけ、と気が付かされることもあるのです。

 主イエスのこの言葉には、どこか軽さがあります。しかし、現実の重さや辛さを主イエスはご存じなのですから、それらの重荷を知り尽くしたうえでの言葉であると受け止めるべきです。今日の自分の苦労には責任を持ち、明日の苦労は明日の自分が責任を持つのでいいじゃないか。この呼びかけの軽さには、共に重荷を負い、わたしたちの荷を軽くしてくださる方の思いやりのようなものがあるように感じられます。今日ダメだったから明日もダメなのだと決めつけ絶望して疲れ果ててしまうのではなくて、明日になれば明日の課題との関わりの中で何かしらの新しいことや希望が立ち現われてくるかもしれないという、主イエスの楽観主義のようなものがあるということです。

 ですから、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と立つことができるのです。そして、空の鳥と野の花を人間のあり方として捉え、神と神の国によって養われているあるがままの今の「いのち」を無条件に全面的に肯定しているのです。

 「だから」「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。明日は明日の風が吹く、明日には明日の楽しみや喜びが待っている、このような主イエスにある楽天性にわたしたちも連なることができるのではないでしょうか。このことは現実逃避ではありません。楽天性によって、より解決困難問題に対しての積極的な関わりの動機を支えるものでもあります。明日を楽しむための主イエスにある知恵と希望のようなものです。

 それでは、今、ガザやウクライナなどで恐怖の中におかれている人たちはどうなのか、との思いがよぎります。かの人たちは明日のことを思い悩まずにいられないだろうと。確かにそのことを思うと本当に苦しいです。しかし、誤解を恐れずに言えば、ガザの人たちの「明日」はガザの人たちのものです。わたしたちは、自らが明日生きる希望を主イエスから得て、かの人たちが苦しまない社会を作り出していく力を備えていくべきなのです。主イエスは楽天性の人でしたが、それゆえにより小さく弱くされた人たちに対して何よりもまず寄り添いつつ生きることを目指した方であり、より困難な場に主イエスが共にいてくださることを祈らずにはおられません。

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