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2024年3月17日 (日)

ルカによる福音書 15章31~32節 「もう一度最初から」

 聖書朗読はルカによる福音書15章31~32節ですが、この物語自体は11節から始まる非常に有名な物語です。

 ある人に息子が二人いました。弟が本来は父の死後に受け継ぐべき財産を生前分与してほしいと願い、そのようになりました。その弟はご承知の通り、放蕩の限りを尽くしてしまい、一文無しになります。さらに飢饉も起こり、食べることすらままならなくなります。仕事はきつく、賃金は安く、やむなくユダヤ人の忌み嫌うブタの世話をする仕事に就きます。ブタの餌すら食べたいと思うほどの困窮状態になりました。そこで、弟は天に対して、父に対して罪を犯していたことを悟り、帰るのです。

 そして【15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。】

 このようにして宴会が始まります。父は、放蕩の限りを尽したこの弟を迎え入れたのです。

 放蕩に身を委ねたこの弟は父の存在に気づかされます。父は底が抜けるほどの愛によって包み込むのです。この父親において示されているのは、神の赦しとしての愛のありようです。無理筋を通して財産を生前贈与させて金に換え、それを使い果たして「もう駄目だ」「もう限界だ」というところにまで身を持ち崩してしまった、愚かさの極みとも言うべき息子に対し、。赦しにより愛によって受け入れていることを伝え、もう一度最初から新しく生き直すためのチャンスを与えたのです。

 わたしたちは、イエス・キリストにおける赦しとしての神の愛の姿をこの物語から示されているのだと受け止めることができます。裏切りや不義理を重ねて誰からも信用されず、窮地に追い詰められても、この物語を生きた物語として信じられるなら、わたしたちは今日のいのちを感謝して受けとめることができるはずです。

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