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2024年3月

2024年3月31日 (日)

マルコによる福音書 16章1~8節 「いのちを肯定する力」

 8節の終わり方は不自然です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これでは物語は終われないと思えるからです。しかし、翻訳には現われていませんが、「恐ろしかったからである」のすぐ後にギリシャ語で「ガル」という単語があるのです。この「ガル」は、「なぜならば」とか「というのは」という、その理由や根拠を述べる言葉として使われています。マルコによる福音書には「循環構造」があるとの指摘がありますが、ここから、もう一度最初からマルコによる福音書を読み返していくことによって、ちょうど1章の主イエスの登場からの物語をなぞりつつ、もう一度自分の現場で生きてみなさいという招きの言葉が働き始めるのです。各自に与えられた生きるべき現場としてガリラヤが備えられているのだから、そこで生きよとの招きがあるのです。

 社会の歪みによって傷つき、倒れ、呻く人々のいるところ、それらはすべて現代のガリラヤです。拡大解釈すれば、わたしたちが日ごとに苦労しながらも何とか支えられながら生きている今という日常をガリラヤと呼んでもかまわないのです。今日の聖書は、そのようなわたしたちの現場、生きるべき場にこそ、再会のキリストが復活者として待っていてくださるのだという約束が語られているのです。わたしたちが遣わされていく現場、そこにおいて復活のキリストと再会し、共に主イエスをキリストとして信じ従う道が備えられているのです。ここに、わたしたちが出会いと出会い損ねを続けながらも、復活のキリストと何度でも再会し、従う道がある。このように今日の聖書は、わたしたちに招きの言葉を語っているのです

 再読することにより、インマヌエル・神われらと共にいます方が主イエス・キリストその方であるのだとあらためて気づかされるのではないでしょうか。この出会いに対して開かれていることをもって「主イエスは復活した」と信じることができるのです。私たちの歩みと共におられる主イエスの復活は、わたしたちの丸ごとのいのちを肯定する力として、今も働き続けていることを信じることが赦されているのです。生きることが困難であり、悩み多く、虐げられ、痛めつけられて、差別され、このような様々な苦難にあった人々が、主イエスとの出会いによって、一人ひとりの状況の中で勇気づけられ、立ち上がり、胸を張って、喜びのうちに生かされたことは、福音書の中に閉じ込められた物語・お話などではないのです。悪霊払いや癒しの物語が、わたしたちのところで出来事となるのです。

2024年3月17日 (日)

ルカによる福音書 15章31~32節 「もう一度最初から」

 聖書朗読はルカによる福音書15章31~32節ですが、この物語自体は11節から始まる非常に有名な物語です。

 ある人に息子が二人いました。弟が本来は父の死後に受け継ぐべき財産を生前分与してほしいと願い、そのようになりました。その弟はご承知の通り、放蕩の限りを尽くしてしまい、一文無しになります。さらに飢饉も起こり、食べることすらままならなくなります。仕事はきつく、賃金は安く、やむなくユダヤ人の忌み嫌うブタの世話をする仕事に就きます。ブタの餌すら食べたいと思うほどの困窮状態になりました。そこで、弟は天に対して、父に対して罪を犯していたことを悟り、帰るのです。

 そして【15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。】

 このようにして宴会が始まります。父は、放蕩の限りを尽したこの弟を迎え入れたのです。

 放蕩に身を委ねたこの弟は父の存在に気づかされます。父は底が抜けるほどの愛によって包み込むのです。この父親において示されているのは、神の赦しとしての愛のありようです。無理筋を通して財産を生前贈与させて金に換え、それを使い果たして「もう駄目だ」「もう限界だ」というところにまで身を持ち崩してしまった、愚かさの極みとも言うべき息子に対し、。赦しにより愛によって受け入れていることを伝え、もう一度最初から新しく生き直すためのチャンスを与えたのです。

 わたしたちは、イエス・キリストにおける赦しとしての神の愛の姿をこの物語から示されているのだと受け止めることができます。裏切りや不義理を重ねて誰からも信用されず、窮地に追い詰められても、この物語を生きた物語として信じられるなら、わたしたちは今日のいのちを感謝して受けとめることができるはずです。

2024年3月10日 (日)

マタイによる福音書 6章34節 「主イエスにある楽天性」

 主イエスは語りかけています。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と。今日考えて解決するなら考えればいい。しかし、今日考えても解決できないことは同じ言葉の繰り返しや「どうしたらいいのか」という問いだけがグルグル回って時間が過ぎていき、身も心も消耗するだけ、と気が付かされることもあるのです。

 主イエスのこの言葉には、どこか軽さがあります。しかし、現実の重さや辛さを主イエスはご存じなのですから、それらの重荷を知り尽くしたうえでの言葉であると受け止めるべきです。今日の自分の苦労には責任を持ち、明日の苦労は明日の自分が責任を持つのでいいじゃないか。この呼びかけの軽さには、共に重荷を負い、わたしたちの荷を軽くしてくださる方の思いやりのようなものがあるように感じられます。今日ダメだったから明日もダメなのだと決めつけ絶望して疲れ果ててしまうのではなくて、明日になれば明日の課題との関わりの中で何かしらの新しいことや希望が立ち現われてくるかもしれないという、主イエスの楽観主義のようなものがあるということです。

 ですから、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と立つことができるのです。そして、空の鳥と野の花を人間のあり方として捉え、神と神の国によって養われているあるがままの今の「いのち」を無条件に全面的に肯定しているのです。

 「だから」「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。明日は明日の風が吹く、明日には明日の楽しみや喜びが待っている、このような主イエスにある楽天性にわたしたちも連なることができるのではないでしょうか。このことは現実逃避ではありません。楽天性によって、より解決困難問題に対しての積極的な関わりの動機を支えるものでもあります。明日を楽しむための主イエスにある知恵と希望のようなものです。

 それでは、今、ガザやウクライナなどで恐怖の中におかれている人たちはどうなのか、との思いがよぎります。かの人たちは明日のことを思い悩まずにいられないだろうと。確かにそのことを思うと本当に苦しいです。しかし、誤解を恐れずに言えば、ガザの人たちの「明日」はガザの人たちのものです。わたしたちは、自らが明日生きる希望を主イエスから得て、かの人たちが苦しまない社会を作り出していく力を備えていくべきなのです。主イエスは楽天性の人でしたが、それゆえにより小さく弱くされた人たちに対して何よりもまず寄り添いつつ生きることを目指した方であり、より困難な場に主イエスが共にいてくださることを祈らずにはおられません。

2024年3月 3日 (日)

マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門」

 人間の人間の社会には「同調圧力」というものが存在します。意見や行動の正しさや間違いについて自分で理由を考えることを捨て、少数派になって孤立することを怖れて多数派に合わせるよう強制する無言の圧力のことです。その場の空気を読むことで波風を如何にして立てないか、目立たないでいられるのかという消極的なものもあるでしょう。しかし、この消極的なものであっても、ハンナ・アーレントの言うところの「悪の凡庸さ」と決して無関係でないと思います。ホロコーストという世界最大級の悪とされる事柄でも、ごく平凡な人間が動機も信念も邪悪な心も悪魔的な意図もなしに行いうるとしたのです。

 わたしたち自身も、行動や判断など一つひとつの態度決定が、この「悪の凡庸さ」につながる、同調圧力によって支えられていないかを自己検証する必要を感じます。「狭い門から入」るためには、「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」から自由にならなくてはならないことが知らされます。大変難しいと感じるのではないでしょうか。だから「狭い門」なのです。わたしたちの前には「広い門」が大きな口を開けて待ち構えていることを知らなければなりません。

 主イエスの生涯は御自身が「狭い門」をいくつも入り続け、結果、十字架による処刑となりました。しかし、よみがえりにより勝利したことに希望を抱くわたしたちは、あえて「狭い門」を選ばなくてはならないのです。そのための課題は「従順」にあるのではないかと思うのです。「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」の根っこに「従順」が横たわっているように感じます。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あった「従順」とは違います。主イエスの「従順」とは、神への「従順」です。神に基づく正義のゆえにより小さくより弱くされた人々と同じ水平に立ち、喜びも悲しみに対しても響き合いながら歩んだのです。主イエスの「従順」の姿は、権力者たちとの論争の場面や両替人の机をひっくり返すような振る舞いにおける「従順」なのです。誰かをないがしろして成り立っている社会に対する抗議としての「従順」とでも呼んだらよいのでしょうか。ですから、わたしたちの安易な「従順」と主イエスの「従順」とは区別されるべきだと考えます。

 自分を屈服させようとする暴力的な意思を、恩恵であるとか愛情であるとかと勘違いする仕方で「従順」になってしまうあり方は「広い門に入」ってしまっている状態だと言えます。この時、共感する相手が誰なのか、その人たちはどのような状況に置かれているのか、ということが重要です。被抑圧者と共に抑圧者に対して波風を立てていくという、まさに主イエスの歩みと重なるあり方にこそ、「共感」というイメージが相応しいのです。決して「幸い」と客観的に呼ばれるはずのない人たちに向かって、生きることの喜びにおいての「共感」に生きた主イエスの姿と重なります。たとえ困難があり、多数派に取り囲まれようとも、あえて「狭い門」を選び取る勇気と愛をもって生きる希望の道へと主イエスは招いているのではないでしょうか。困難な門であっても、なさねばならないことと時はあるのです。

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