マルコによる福音書 16章1~8節 「いのちを肯定する力」
8節の終わり方は不自然です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これでは物語は終われないと思えるからです。しかし、翻訳には現われていませんが、「恐ろしかったからである」のすぐ後にギリシャ語で「ガル」という単語があるのです。この「ガル」は、「なぜならば」とか「というのは」という、その理由や根拠を述べる言葉として使われています。マルコによる福音書には「循環構造」があるとの指摘がありますが、ここから、もう一度最初からマルコによる福音書を読み返していくことによって、ちょうど1章の主イエスの登場からの物語をなぞりつつ、もう一度自分の現場で生きてみなさいという招きの言葉が働き始めるのです。各自に与えられた生きるべき現場としてガリラヤが備えられているのだから、そこで生きよとの招きがあるのです。
社会の歪みによって傷つき、倒れ、呻く人々のいるところ、それらはすべて現代のガリラヤです。拡大解釈すれば、わたしたちが日ごとに苦労しながらも何とか支えられながら生きている今という日常をガリラヤと呼んでもかまわないのです。今日の聖書は、そのようなわたしたちの現場、生きるべき場にこそ、再会のキリストが復活者として待っていてくださるのだという約束が語られているのです。わたしたちが遣わされていく現場、そこにおいて復活のキリストと再会し、共に主イエスをキリストとして信じ従う道が備えられているのです。ここに、わたしたちが出会いと出会い損ねを続けながらも、復活のキリストと何度でも再会し、従う道がある。このように今日の聖書は、わたしたちに招きの言葉を語っているのです
再読することにより、インマヌエル・神われらと共にいます方が主イエス・キリストその方であるのだとあらためて気づかされるのではないでしょうか。この出会いに対して開かれていることをもって「主イエスは復活した」と信じることができるのです。私たちの歩みと共におられる主イエスの復活は、わたしたちの丸ごとのいのちを肯定する力として、今も働き続けていることを信じることが赦されているのです。生きることが困難であり、悩み多く、虐げられ、痛めつけられて、差別され、このような様々な苦難にあった人々が、主イエスとの出会いによって、一人ひとりの状況の中で勇気づけられ、立ち上がり、胸を張って、喜びのうちに生かされたことは、福音書の中に閉じ込められた物語・お話などではないのです。悪霊払いや癒しの物語が、わたしたちのところで出来事となるのです。
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