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2024年2月 4日 (日)

ルカによる福音書 17章20~21節 「ここでもあそこでもなく」

 「神の国はいつ来るのか」という問いは決して観念的なことや心の内側のことに留まらず、今ある世界・体制に対して「あなたはどのような立場をとるのか」という問題意識と無縁ではありません。神の国をどのようにイメージするのか、それがどのようにして来るのか、は真面目にこの世界について接しようと思う人たちにとっては喫緊の課題であったと言えるからです。もうこの世界は神によって終わりが告げられるなら、ローマの支配はことごとく止み、やって来るのは神の平安であり、そこに身を委ねて抵抗の闘いをするのか、あるいは来るべき日は近いのだから何もしないままその時まで耐え忍ぶのか、様々な立場があったことは想像できます。

 主イエスの答えは、彼らの期待するものではありませんでした。「神の国は、見える形では来ない『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」と言うのは、神の名による革命によって政治形態を転覆させることとか、新しい王であるとか預言者であるとか救い主を自称する人たちを持ち上げて崇め奉るような運動とか、その他の実力者やカリスマティカーに御すがりしていこう、という態度とは全く異なったものでした。それは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」という言葉によって分かります。この「あなたがたの間」は、しばしば精神性や内面性のこと、つまり心の持ちようのことだとされますが、平たい言葉で言えば「関係」のことです。神の国とは、人と人との関係において立ち現われるものなのだというのです。相手のことを思いやり、自分からもそうすること。お互いのいのちを愛おしく大切にしあうことの中に神の国は立ち現われるという、主イエスの信頼の表明として読むことができるのです。荒れ果てた時代の乾ききり絶望と隣り合わせの中でも、人には愛し合うことができるのだし、そのお互いを大切にしながら、<今>を生き抜くことの中にこそ神の国はある、そうでなければ必ずそうして見せる、という主イエスの決意なのかもしれません。

 人は神から祝福され恵まれなければならないのに、何故このように人々がお互いにレッテルを張り付け憎しみ合わなければならないのか、軽蔑や差別や抑圧、人が人としてそのいのちが軽くされている現実に対して、神の祝福を受け入れることを取り戻したのです。主イエスには、人々に対する全面的な肯定感が満ち溢れていたからこそ、神の国の実在感があったのです。

 実態として「見える形では」捉えられない「関係」の豊かさを追い求め、育て、慈しむが「わたしとあなた」「わたしとわたし」「わたしと誰か」このような関係の中で立ち現われる神の国なのです。「間」とは手応えのない感覚かもしれません。しかし、ちょっとした言葉や仕草や眼差しに、主イエスに倣う「愛」の欠片があれば決して不可能ではないのです。今生きている場所での<今ここで>のその神の国を喜んで受け入れたいと願うのです。身近なところから世界大の広がりの中で人の作り出す地獄の時代は続いています。だからこそ、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」との言葉の尊さ、豊かさ、憐み深さに対してご一緒に心を寄せたいのです。

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