出エジプト記 20章2~6節 「神は神であるから」
「偶像」とは、木や石などを刻んだものとか金属を高温で溶かして型に嵌めて造られたものに限られません。それを基準として自分自身のあり方の根本を支えるものを「偶像」と呼ぶのです。山や海といった豊かな自然であったり、星や月の巡り、あるいは、権威であるとか権力であるとかお金であることもあるでしょう。
わたしたちは確かに主イエス・キリストの神だけを唯一だとして信じて教会で礼拝を守っています。しかし、本当に聖書に証言されている、主イエス・キリストの神だけを信じ、依り頼み、導かれていると自信をもって断言できるのかと問われれば、口ごもってしまうのです。
わたしたちは、神にすり替えられたり並べられたりする価値観や判断の基準や考えの基礎になるものの考え方に汚染されていないと言えるのでしょうか。社会のルールとされるものや風潮、たとえば「自衛のための戦争」「死刑制度」「天皇制の存在」宇宙開発、「便利さ」の追求、経済発展、遺伝子操作を伴う医療の発展原発……、それら一つひとつについて自分の頭と心で考え、相対化できているか問い、そこに縛られていないか確認する必要があるかもしれません。
神でないものを神としてしまうという誘惑は、キリスト者個人にも教会にも付き纏い続けています。この誘惑との闘いなしにキリスト者であり続けることは困難です。
わたしたちはどこにいるのでしょうか。マタイによる福音書4章のサタンによる主イエスの誘惑物語の1節を思い起こします。【更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
主イエスの受けられた誘惑は、わたしたちに対するものとしても今の課題となっているように思われます。主イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』」と答えました。この姿勢は、わたしたちが主イエスにおいて「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」を告白していくことと別のことではありません。
わたしたちは、主イエス・キリストにあって「神は神である」ところから、新しく何度でも始めなくてはなりません。主イエス・キリストにおける三位一体の神のみが唯一のまことの神である、つまり神が神であるという立ち位置に改めて立ち続けなければならないという、今更ながら当たり前のキリスト教会がここにあるのだとの確認のもとで祈り続ける群れでありたいと願います。
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