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2024年1月21日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章15節 「生きるために」

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉はパウロがローマの信徒に宛てて書いた手紙の中の一節です。パウロが自分で編み出したオリジナルの言葉であったとは限らない、当時の倫理的な教訓とか格言であったのかもしれません。この前もお話しましたが、言葉は「何を」ということ以上に「誰が」言うかということによって決定されます。これはパウロが語ったからこそ生きた言葉なのです。地中海沿岸を旅しながら、自ら働きつつ伝道し、教会形成し続けたパウロの言葉としてしっかり受け止めたいのです。

 このキリスト者の規範とも言うべき生き方はパウロの主張なのですが、その主張を導き出しているのは生前の主イエスの生き方です。パウロは元々キリスト者を迫害する熱心なファリサイ派の教師で、生前の主イエスにはおそらく会っておらず、しかし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との主イエスの言葉によって、自分が迫害しているキリスト者の振る舞いや言葉や生き方の中にキリストがあるということを知らされたのでしょう。パウロが迫害している人たちにキリストが生きていたということです。そして、パウロは回心して伝道者として起こされたのです。今度は主イエス・キリストに支えられ導かれたものとしての振る舞いと言葉へと展開したわけですから、伝道者としてのパウロの手紙に言い表されていることは、主イエスを映し出すものとならざるを得ないのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉が正しく語られ聞かれ、これが本当になっていくかどうかは、主イエス・キリストの御心に適っているかどうか、にかかってくるのです。テレビやインターネットなどによって創り出されるところの同情とか共感とかというレベルではなくて、主イエスが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」いた相手とは誰か、その関係性が、具体的な「あなたとわたし」という人間のつながりとして機能しているか、が問われるのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というパウロの言葉は、具体的な誰かと共にいられるのかどうかとの問いへと招いているのです。あなたやわたしは誰とどのように共に生きていこうとしているのか、ということです。

 仲間になっていくことは人間の力では、なかなか叶わないことかもしれません。人間の努力や誠実さには限界があるからです。わたしたちは、主イエスの意志としての聖霊の働きを求め祈り続ける中で、それを必要としている人の隣に居続けることができるよう、わたしたちの生活を整えていきたいと思います。

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