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2024年1月

2024年1月28日 (日)

マルコによる福音書 12章28~34節 「受容の受容」

 現代において特に自己肯定感の欠乏からくるであろう歪んだ自己承認欲求の表出が目立つようになってきています。条件付きの愛、取引の愛の中で作られてきた人間関係における暗さがその根底にあるのではないかと思います。

しかしこれは、現代日本の社会に限られたことではなく、新約聖書の時代にも、もちろんありました。当時の感覚で言えば、聖さと汚れという基準です。律法や掟を守っている人、守ることのできている人たちとそうでない人たちとの区別があったのです。病気や「障がい」など都合の悪いことの一切は悪霊の働きとされ、汚れている、罪人であると断罪されていました。そして、社会に復帰するためには清められなければならなかったのです。律法や掟という良きことに従っているならば、その人の人格や存在が社会によって受け入れられるという仕組みであったのです。「罪人」という括りの内側にいる人たちは、「聖さ」を獲得しなければ、その存在さえ認められない社会であったのです。

 しかし、主イエスの受け入れは、律法や掟という基準に依りません。いわば、その人の「罪人」という括りを打ち破ったのです。律法や掟を守っているか、守れているのか、そんなことは一切関わりなく、今生かされてあるいのちを無条件で全面的に認め、受け入れたのです。この主イエスにおける神により受け入れられているところから、人間の側は、その応答として信じる気持ち、その心が起こされるのです。受け入れられていることを受け入れるのです。そのように導かれ整えられていくのです。今日の題を「受容の受容」としましたが、主イエスの神は、どこまでも受け入れる愛そのものです。一切の条件はありません。こういうことをしたらOK、ああいうことをしたらNG,ということはありません。今あるがままの姿で全面的にOKを差し出すのです。信仰とは、これを事実として感謝をもって受け止めるところにあります。神の愛が主イエスとして立ち現われており、その招きに巻き込まれていることを受け止めるところに、応答として神を愛する道が備えられるのです。この神を愛することは、主イエスに全面的に受け入れられていることによる自己肯定感に支えられて、同時に隣人を愛することへと導かれていくのです。

 主イエスの愛を受けての信仰としての受容の受容をより深く理解し、自己肯定感が整えられていくときには、その小さな愛さえも育てられていくのではないかという希望へと導かれていくことを信じることができるのです。この信じる気持ちによって「神の国に近い」道へとつながる可能性に結ばれていくのではないでしょうか。

2024年1月21日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章15節 「生きるために」

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉はパウロがローマの信徒に宛てて書いた手紙の中の一節です。パウロが自分で編み出したオリジナルの言葉であったとは限らない、当時の倫理的な教訓とか格言であったのかもしれません。この前もお話しましたが、言葉は「何を」ということ以上に「誰が」言うかということによって決定されます。これはパウロが語ったからこそ生きた言葉なのです。地中海沿岸を旅しながら、自ら働きつつ伝道し、教会形成し続けたパウロの言葉としてしっかり受け止めたいのです。

 このキリスト者の規範とも言うべき生き方はパウロの主張なのですが、その主張を導き出しているのは生前の主イエスの生き方です。パウロは元々キリスト者を迫害する熱心なファリサイ派の教師で、生前の主イエスにはおそらく会っておらず、しかし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との主イエスの言葉によって、自分が迫害しているキリスト者の振る舞いや言葉や生き方の中にキリストがあるということを知らされたのでしょう。パウロが迫害している人たちにキリストが生きていたということです。そして、パウロは回心して伝道者として起こされたのです。今度は主イエス・キリストに支えられ導かれたものとしての振る舞いと言葉へと展開したわけですから、伝道者としてのパウロの手紙に言い表されていることは、主イエスを映し出すものとならざるを得ないのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉が正しく語られ聞かれ、これが本当になっていくかどうかは、主イエス・キリストの御心に適っているかどうか、にかかってくるのです。テレビやインターネットなどによって創り出されるところの同情とか共感とかというレベルではなくて、主イエスが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」いた相手とは誰か、その関係性が、具体的な「あなたとわたし」という人間のつながりとして機能しているか、が問われるのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というパウロの言葉は、具体的な誰かと共にいられるのかどうかとの問いへと招いているのです。あなたやわたしは誰とどのように共に生きていこうとしているのか、ということです。

 仲間になっていくことは人間の力では、なかなか叶わないことかもしれません。人間の努力や誠実さには限界があるからです。わたしたちは、主イエスの意志としての聖霊の働きを求め祈り続ける中で、それを必要としている人の隣に居続けることができるよう、わたしたちの生活を整えていきたいと思います。

2024年1月14日 (日)

マルコによる福音書 2章21~22節 「醸し出せ!いのち」

 今日の言葉は、おそらく一般的な暮らしの中での知恵として語られてきた格言だと言えます。いわば、どこにでも転がっているような言葉です。重要なのは、言葉の意味自体ではありません。しばしば、何を語るのかについては誰がどのような状況で語ったのかの方が読み解きにとって重要であることがあります。このどこにでもある格言ですが、語っているのが主イエス・キリストであることにこそ意味があるのです。

 あなたは世間や社会の強いる価値観によって生きるべきではない。本来、神はすべてのいのちを全面的に肯定し、祝福している。その肯定と祝福が今、ここに実現したと、主イエスは癒しの業や宣言によってなしたのではないでしょうか。あなたには、主イエスに支えられた、満ち満ちたいのちのエネルギーが与えられている、それを正面から恵みとして受け取ることがすでに赦されている。それを受け止めさえすればいい。このようにして、時代の強いる病に代表される不自由からの解放を行ったのです。価値観の逆転として、です。主イエスの癒しの力とはエネルギー注入であり、そこで起こされるのは、いわば受容の受容ということです。受け入れられていることを受け入れるということです。今、あるがままの姿に対して条件を付けないで全面的にOKが出されているということです。

 主イエスの生涯が、ヨハネからの受洗時に天が裂け、十字架上の死の際神殿の幕が裂ける出来事であるなら、その語る言葉が当時の言い伝えや格言に過ぎない内容であっても、古い布切れや古い革袋を破るほどのいのちが漲っているのです。このいのちの勢いに身を任せていけばいいのです。

 著者マルコは言います。あなたは、主イエス・キリストからもたらされた溢れ出るエネルギーに満たされてしまっている、そこに身を委ねて歩め!何故なら、古い布切れと古い革袋は、主イエスの人を生かすエネルギーによって破られているからだ、ここに立つことへと導かれているのだから、真正面から受け止めさえすればいい。それだけのことに今立ち返れ!あなたは生きる意味や価値など自分にはないと強いられ、自分でも思い込んでいるかもしれないが、それは幻に過ぎない。あなたのいのちは神によって生き生きと漲るいのちのもとにある。主イエスにおける無条件で資格を問わないいのちの全面的な肯定感に包まれてしまっていることを自覚せよ、と。

 主イエスの招きは、それだけで聴くに十分な恵みに漲っているのです。誰彼からのレッテル張りや権威や権力から強いられた価値観によって理解させられてしまっている自分から、本来のあるがままの姿で受け止められ支えられてしまっている自分へと位置をズラすことで整えること。ここから生き生きとした、喜ばしい自分を生きていくことへの方向付けが与えられるのではないでしょうか。醸し出されるいのちに共に与って歩んでいきたいと願います。

2024年1月 7日 (日)

ルカによる福音書 2章8~20節 「羊飼いたちの賛美」

 当時の被差別者である羊飼いたちは、主イエスとマリアとヨセフとの出会いによって生き方を全面的に変えます。20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。救い主である幼な子との出会いがあまりにも素晴らしかったので自分たちの現場に向かって賛美歌を歌いながら帰って行ったと読めます。しかし、この「賛美しながら帰って行った」とは、賛美する姿勢で自分たちが現場で生きる決意をしたのだと読む方が相応しいと思います。かつては他人の眼差しに敵意や悪意を感じ、できるだけ接触を避け、また自己卑下もあったであろう羊飼いたちが、それらとは正反対の生き方へと転じたということではないでしょうか。胸を張り、正面を見据え、自らの尊厳を認めつつ生きる生き方へと転じたのです。神を讃える賛美の生き方とは、自らの尊厳に生きることと別のことではありません。強いられる軽蔑などの苦しみに寄り添う無力な幼子こそがまことのキリストであることは、自分たちの生き方を全面的に認め支えるところの「あなたがたへのしるしである」のです。 羊飼いたちが「賛美しながら帰って行った」という生き方の転換は、いわば人権の回復がなされたのだと理解します。この人権の回復に寄り添うのかどうかが、クリスマスの実質化と非常に強く共鳴しているのだと考えざるを得ないのです。クリスマスを祝うということは、ただ単に主イエス・キリストがこの世に向かってプレゼントされたことに留まらないのです。問題は、その中身であり方向性です。そして、それを自分たちの課題として担うことが、そのプレゼントとしての恵みに応えていく道なのではないかと思うのです。

 主イエスのナザレでの登場においてイザヤ書の言葉があります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」。このような解放、自由への招きとしての「主の年」の実現が主イエスなのです。水平な平等な人間関係、お互いの人権が尊重される社会の実現です。この方向付けがクリスマスでもあるのです。

 クリスマスにおいて主イエス・キリストというプレゼントを何にも代え難い恵みとして受け止めたいのです。そして、わたしたちも、羊飼いたちの「賛美しながら帰って行った」という生き方に心を寄せ共鳴する、わたしたち自身の「賛美しながら帰って行った」が出来事となる道を求めてご一緒に歩みたいと思います。現代の課題としてクリスマスの祝福を共に受けることとは、現代の羊飼いたちと連帯していくことと、この世において弱い立場に置かれている人びとの尊厳を取り戻す働きにつながることと、別のことではありません。

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