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2023年12月 3日 (日)

ルカによる福音書 21章25~28節 「人の子が来る」

 今日の聖書は、世の終わりに関わる記事の文脈になります。戦争や暴動、天変地異やいのちの危険など破滅の前兆や予感だけでなく実感として肌で感じられる状況があるのです。いまのわたしたちと同じように。もうこの世は終わりを迎えているのではないか、恐怖や不安や絶望の中で耐えうるのか、どうしたらよいのか、ただ滅びゆく世界の中で何もできず、自らの無力さに打ちひしがれているしかないのか、このような状況の中での態度決定が求められているのではないでしょうか。

 この世界は神による天地創造で始まったのであれば、終わりもいつかはやって来るのでしょう。しかし、その終わりの時とは神によってのみもたらされるものであるのだから、そのことに心騒がせるのではなく、今取りうる態度決定に心を注ぐべきとの提案がなされているのではないか、その提案が今日の聖書なのではないだろうかと思うのです。クリスマスを待つことと、世の終わりを待つこととはどこか似ています。いずれも、主は来られるという知らせのゆえに態度決定が整えられるのだということです。クリスマスの近づきも世の終わりの近づきも、主は来られるがゆえにあえて希望する、信仰的な態度が求められるのです。

 世の終わりを予感させるようなことがあっても、それは終わりではない。終わりは神にのみあり、その時は神だけが知っているのだということです。前兆のようなものは、あくまで「ようなもの」に過ぎないのです。わたしたちがより頼むべき言葉とは、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」。ここにあります。来臨の主イエスはやがて来られる、その根とはクリスマスの主イエスが2000年前に来られたところにあります。この主イエスは、悲惨の只中に向かって語りかけたように生き抜かれたのです。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」、主イエスの「幸いである」との祝福は、そのような悲惨の中にあって、その悲惨を打ち破る闘いの生きた言葉であったのです。この言葉の決定的な転回点が十字架刑と復活であるのです。やがて天に昇られた主イエスはキリストであり続け、神の右の座から聖霊として「幸いである」という力をもって臨んでおられるのです。この主が世の終わりにおいて来られる、この根拠としてクリスマス、救い主の誕生があるのです。わたしたちは、クリスマスを祝うために待つことを学ばなければなりません。その態度は、やがて世の終わりに来られる主イエスがクリスマスの主として来られたがゆえに、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」という言葉によって整えられるのです。この時代にあって世界へ思いを馳せ、平和の主イエスにあってクリスマスを待ち望むこととは、これです。

 ご一緒に、「身を起こして頭を上げなさい。」という言葉に依り頼む者として歩みたいのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」との言葉に信頼を寄せながら、平和の主イエスの誕生を祝う道へと連なりたいと願うのです。

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