ルカによる福音書 1章46~55節 「主をあがめ」
マリアは「主をあがめ」「救い主である神を喜びたたえます」。それは、神の主権が確かであることによって、自らに起こっている救い主を宿していることへの賛美です。しかも、その内容は非常に力強く、神の思いや願いがどのようにして、どこに向かっているのかを歌い上げるのです。51節以下を読んでみます。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。これは、神の主権がこの世に打ち立てられることによる革命の宣言のようでもあります。この世の価値観一切が逆転し、神の世界・神の国の実現と到来を歌い上げているのです。ルカによる福音書の「つもり」としては、この「革命」は主イエス・キリストの登場により実現する。世俗のまた宗教的権力によって優劣や上下関係が作りだされている現実を変革し、抑圧され差別されている人びとを解放し、飢えているものを満たし、富める者を空腹へと追いやるのだというのです。この記事はルカによる福音書での主イエスがナザレの会堂で安息日に会堂でイザヤ書を朗読した記事を思い起こさせます(4:16-21)。
ここで注目したいのは、マリアの革命の声は彼女自身の決意によって発せられてはいますが、彼女自身を根拠としたものではなく、天使ガブリエルを通して伝えられた主イエスの誕生の知らせに関するやり取りの中で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えた、その従順に由来するのです。語られている神からの言葉に「戸惑い」「考え込んだ」とありますが、これをわたしは祈りと呼んでも間違いではないと思います。つまり、この神の言葉に対して「お言葉どおり、この身に成りますように」と自らの位置を受けとめ、祈りの中で革命の歌という自分からの主体的な働きかけの言葉へと転じていったのです。この受動から祈りにおいて能動へと転じていくあり方は、マリアにのみ留まるのではなくて、主イエスに従う者のあり方全般のひな型とでもいうべき姿なのではないでしょうか。神の言葉は語られている。その言葉に対して全存在をかけて受け身となり祈る。その中で能動的に初めの一歩として胸を張って歩み出す。これが信仰者のあり方なのだと呼びかけているのではないでしょうか。クリスマスを祝うことの意味は、この世の権力を相対化し、主イエス・キリストの王権が確立されていく道に受動から祈りをもって能動へと導かれていくところにあるのではないでしょうか。
最近のコメント