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2023年12月

2023年12月31日 (日)

ルカによる福音書 1章46~55節 「主をあがめ」

 マリアは「主をあがめ」「救い主である神を喜びたたえます」。それは、神の主権が確かであることによって、自らに起こっている救い主を宿していることへの賛美です。しかも、その内容は非常に力強く、神の思いや願いがどのようにして、どこに向かっているのかを歌い上げるのです。51節以下を読んでみます。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。これは、神の主権がこの世に打ち立てられることによる革命の宣言のようでもあります。この世の価値観一切が逆転し、神の世界・神の国の実現と到来を歌い上げているのです。ルカによる福音書の「つもり」としては、この「革命」は主イエス・キリストの登場により実現する。世俗のまた宗教的権力によって優劣や上下関係が作りだされている現実を変革し、抑圧され差別されている人びとを解放し、飢えているものを満たし、富める者を空腹へと追いやるのだというのです。この記事はルカによる福音書での主イエスがナザレの会堂で安息日に会堂でイザヤ書を朗読した記事を思い起こさせます(41621)。

 ここで注目したいのは、マリアの革命の声は彼女自身の決意によって発せられてはいますが、彼女自身を根拠としたものではなく、天使ガブリエルを通して伝えられた主イエスの誕生の知らせに関するやり取りの中で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えた、その従順に由来するのです。語られている神からの言葉に「戸惑い」「考え込んだ」とありますが、これをわたしは祈りと呼んでも間違いではないと思います。つまり、この神の言葉に対して「お言葉どおり、この身に成りますように」と自らの位置を受けとめ、祈りの中で革命の歌という自分からの主体的な働きかけの言葉へと転じていったのです。この受動から祈りにおいて能動へと転じていくあり方は、マリアにのみ留まるのではなくて、主イエスに従う者のあり方全般のひな型とでもいうべき姿なのではないでしょうか。神の言葉は語られている。その言葉に対して全存在をかけて受け身となり祈る。その中で能動的に初めの一歩として胸を張って歩み出す。これが信仰者のあり方なのだと呼びかけているのではないでしょうか。クリスマスを祝うことの意味は、この世の権力を相対化し、主イエス・キリストの王権が確立されていく道に受動から祈りをもって能動へと導かれていくところにあるのではないでしょうか。

2023年12月24日 (日)

フィリピの信徒への手紙 2章1~11節 「神のへりくだり」

 フィリピの信徒への手紙268節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。それはどのような姿であったのかについて『讃美歌21』の280番「馬槽のなかに」の歌詞をご覧ください。簡潔でありながら十分に歌いあげられています。自らの身を削るようにして、小さく弱くされている人びとのところに友なき人の友となり仲間となるためにこそ主イエスはやってきたのです。そして、その生涯は当時の世俗の、また宗教的な権力者たちから迫害され、当時最も忌み嫌われていた十字架という処刑によって、いわば余計者として殺されていくのです。この十字架の死には、徹底した神のへりくだりが示されています。人間の負うべき、底知れないどす黒いもの、人間力や能力では解決できない罪や業の深さ一切を十字架において担うためにこそ来てくださったのです。

 これを踏まえると、聖書の前半の言葉へと導かれてきます。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と。イエス・キリストが、わたしたちへの神からのプレゼントであり、神のへりくだりがイエス・キリストであることを信じるところから、わたしたちは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払」う生き方へと導かれていくに違いないのです。このあり方が「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」へと実現していくのです。

 イエス・キリストにおける神のへりくだりに発する、人間同士のへりくだりの道に連なることで、少しでも平和に近づきたいと願い、祈るのです。神のへりくだりとは、誰彼の差別や区別なく愛し受け入れていくことです。わたしたちは、お互いの意見や思想、あるいは信仰が異なっていても、イエス・キリストにおいて愛されてしまっているのです。ですから、「わたしたち」だけでなく、たとえ敵対する立場であっても「あの人たち」も含め、神がイエス・キリストにおいて、全人類の友であるのだということを受け止めていきたいのです。すべての人が「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」という神の国・神の世界観へと招かれているのです。

2023年12月10日 (日)

ルカによる福音書 4章14~21節 「主の恵み」

 ルカ福音書によれば、主イエスの登場は「主の恵みの年を告げるためである」ということです。この「恵みの年」とは、レビ記25章に描かれている「ヨベルの年」のことです。細かい規定になっているのですが、連作障害のことを考え畑を7年目に休ませるという、当時の農業の知恵が反映されています。大きなテーマは、77倍の次の年には、つまり50年目ごとに1回、すべての借金はなくされるし、土地も元の持ち主に返され、奴隷も解放される、というものです。これが本当に実行されたのかどうかは確かではありませんし、読み方によってはイスラエル同胞の間という閉じられた発想もある感じなのです。もしかしたら、この「ヨベルの年」というものは、イスラエルの民が頭の中で思い描いただけの夢物語や理想の繁栄に過ぎないのかもしれません。

 しかし、イスラエルの民を選び支え導いた神の意志はどこにあるのかを祈りの中から応えようとした世界観であるなら、現代的な課題として受け止め直すには十分な問題提起であろうと思えるのです。借金に喘ぎ、土地も奪われ、奴隷とされてしまう過酷な現実、その歴史の中で、神による恵みが50年目の年において実現する、これは具体的な歴史に介入し、働きかける「主の恵み」以外の何物でもない、そのような信仰がここにはあるのではないでしょうか。

 貧しいところ、困り果てているところに対して、歪みを平らにするように社会全体の不平等を一度リセットし、平らにするという発想があるのです。借金などで首が回らない経済状態を知っているからこそ、ここからの解放が「主の恵み」なのだとされるのです。社会をもう一度正しい方向に向かって作り直していく道はないのか、このことを人間の知恵によるのではなく神による主の恵みとしての律法、掟の回復として主イエスは登場したのです。いわば、世直しの具体として、です。これをこそ「福音」なのだとルカは証言しています。さらに「捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし」と。この「ヨベルの年」「主の恵みの年」は不平等によって敗れた世界を回復するという教えです。

 誰もが貧困や暴力やあらゆる悪しき力や出来事から解放され、喜びと平安のうちに生きることのできる世界が必ずや来るのだと信じる信仰において、今ある理不尽に抗い、主イエスにある正義を祈り求めつつ歩むとき、わたしたちの場には、クリスマスの主イエスが今年も来てくださるに違いないのです。

2023年12月 3日 (日)

ルカによる福音書 21章25~28節 「人の子が来る」

 今日の聖書は、世の終わりに関わる記事の文脈になります。戦争や暴動、天変地異やいのちの危険など破滅の前兆や予感だけでなく実感として肌で感じられる状況があるのです。いまのわたしたちと同じように。もうこの世は終わりを迎えているのではないか、恐怖や不安や絶望の中で耐えうるのか、どうしたらよいのか、ただ滅びゆく世界の中で何もできず、自らの無力さに打ちひしがれているしかないのか、このような状況の中での態度決定が求められているのではないでしょうか。

 この世界は神による天地創造で始まったのであれば、終わりもいつかはやって来るのでしょう。しかし、その終わりの時とは神によってのみもたらされるものであるのだから、そのことに心騒がせるのではなく、今取りうる態度決定に心を注ぐべきとの提案がなされているのではないか、その提案が今日の聖書なのではないだろうかと思うのです。クリスマスを待つことと、世の終わりを待つこととはどこか似ています。いずれも、主は来られるという知らせのゆえに態度決定が整えられるのだということです。クリスマスの近づきも世の終わりの近づきも、主は来られるがゆえにあえて希望する、信仰的な態度が求められるのです。

 世の終わりを予感させるようなことがあっても、それは終わりではない。終わりは神にのみあり、その時は神だけが知っているのだということです。前兆のようなものは、あくまで「ようなもの」に過ぎないのです。わたしたちがより頼むべき言葉とは、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」。ここにあります。来臨の主イエスはやがて来られる、その根とはクリスマスの主イエスが2000年前に来られたところにあります。この主イエスは、悲惨の只中に向かって語りかけたように生き抜かれたのです。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」、主イエスの「幸いである」との祝福は、そのような悲惨の中にあって、その悲惨を打ち破る闘いの生きた言葉であったのです。この言葉の決定的な転回点が十字架刑と復活であるのです。やがて天に昇られた主イエスはキリストであり続け、神の右の座から聖霊として「幸いである」という力をもって臨んでおられるのです。この主が世の終わりにおいて来られる、この根拠としてクリスマス、救い主の誕生があるのです。わたしたちは、クリスマスを祝うために待つことを学ばなければなりません。その態度は、やがて世の終わりに来られる主イエスがクリスマスの主として来られたがゆえに、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」という言葉によって整えられるのです。この時代にあって世界へ思いを馳せ、平和の主イエスにあってクリスマスを待ち望むこととは、これです。

 ご一緒に、「身を起こして頭を上げなさい。」という言葉に依り頼む者として歩みたいのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」との言葉に信頼を寄せながら、平和の主イエスの誕生を祝う道へと連なりたいと願うのです。

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