マタイによる福音書 28章20節 「イエスさまと一緒に」
~子ども祝福礼拝~
主イエスの語る、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とは、どういうことでしょうか。この世界の初めは神さまが創りました。初めがあるなら終わりもあるはずです。その終わりがいつになるのかは誰にもわかりませんが、その時まで主イエスはずっと一緒にいてくださるのだというのです。今生きている人の中で、主イエスを実際に見たことがある人は、誰もいません。でも、教会は見えない主イエスだけれども一緒にいてくださるのだと信じています。
主イエスを見ることはできません。でも不思議な風が働くところにはどこにでも主イエスは一緒にいてくださるのです。あなたとわたしの間、友だちや家族などとの間で、嬉しいことでも悲しいことでも、どこかで心が通じ合っていたり、心を寄せているところにはどこにでも、です。主イエスの願いはすべての人に「幸い」という祝福が届けられていくことです。「幸い」が届けられるのは、ただ自分にとって都合の良い「幸せ」を感じているところだけではありません。食べるものがないところ、怪我や病気などとてもつらいところ、主イエスの願いが届けられているなんて信じられないところにまで届いていく、不思議な風のような聖霊の働きによって主イエスはいつも一緒なのです。
この主イエスは今日もまた、わたしたちと一緒にいてくださるのです。そして、わたしたちという顔見知りの人たちの間にだけではなくて、まだ会ったこともない世界中の人たちと心がつながっていく道があるのだとも信じることができるのです。主イエスの願っている本当の「平和」を願い、祈り求めていこうとするところには、もうすでに主イエスが待っていてくださることを信じることができるのです。
本当に悲しいことですが、今、世界は「平和」ではありません。そして、わたしたちも毎日がうれしくて楽しいことばかりではありません。けれども、主イエスは世界中で起こっていることや、わたしたちの毎日を全部見守っていてくださるのです。そして、人と人との間に一緒にいてくださるのです。
わたしたちは毎日の生活の中で「神さまがいつも共にいてくださる(インマヌエル)」ことを忘れてしまいがちです。だから、「インマヌエル」を繰り返し、安心を取り戻すのです。今日は子ども祝福の礼拝ですが、「祝福」というのは、この「インマヌエル」を心と身体の隅々にまで行き渡らせることです。神としての主イエスが、聖霊として、見えないけれども今も生きて働いていてくださるのです。
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