コリントの信徒への手紙一 11章27~34節 「主イエスの食卓の回復」
最後の晩餐が「聖餐」の聖書的な根拠となっていることは確かです。しかし、主イエスの食卓の場面は福音書に数多く記されています。「罪人」「徴税人」たち、あるいは大勢の人々との食卓などがあります。これらが濃縮されて最後の晩餐に集約されている、つまり、主イエスの食卓は最後の晩餐に至るまでに意味が広がり、深まってきていると考えるのです。パウロのコリント教会に対する、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」という怒りの元には、主イエスの食卓に対する共鳴があると思うのです。誰かを排除する食卓、食べられない人を無視したり、思いを寄せることをしないこと、これらは主イエスの食卓には「ふさわしくない」のです。
わたしたちの住む国で、何十万円もする食事を楽しむ人々がいる一方、給食以外の食事にありつけない子どもたちがいます。その格差を僅かでも埋めるべく「子ども食堂」や炊き出しなどを提供する人々がいます。主の食卓に連なると言えるでしょう。
清らかで厳粛な宗教儀礼としてではなく、主イエスが自らをかけて行った数々の食卓の場面を思い返し、最後の晩餐に至る道筋から「聖餐」をあえて祝いたいと願います。「聖餐式」は、傍から見たら幼稚なママゴトに過ぎないのかもしれません。キリスト教徒の自己満足にすぎないのかもしれません。
しかし、それでも主イエスの食卓の回復を映し出す儀式でありたいと願うのです。わたしたちの多くは、比較的貧困ではないと言えるでしょう。わたしたちは、この意味において、食べられない人たちを思いながらも食べることができてしまっているという、食にまつわる後ろめたさの塊のような存在なのかもしれません。主イエスの食卓を回復することを「聖餐」に映し出し、祈りを込めたいと思うのです。誰一人取り残されることなく、思う存分食べることのできる世界、それは決して夢物語ではなく、やがて来るはずだと信じたいのです。
主イエスの活動されたパレスチナでは、今、食べ物も水すらない状態で攻撃にさらされている人たちがいます。その映像を目にしながら日々満腹できている側の者が何を吞気なことを、という思いも胸に突き刺さります。それでも、この願いのもとで主の食卓の回復を祈りたいのです。
パウロの語るところの「ふさわしくないままで」という状況がこの国の中に限らず世界中に満ち溢れている状態があります。ここから、「聖餐」を祝いつつ、「飯が天です ああ 飯はみんながたがいに分かち食べるもの」(金芝河)という世界に至るために祈るのです。主イエス・キリストはその身をパンとブドウ液という象徴において差し出されていることを、「聖餐」という儀式を通して心に刻みたいのです。このようにご一緒に確認し、来るべき神の国へのお思いと心を寄せるものとして整えられたいと願います。
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