マタイによる福音書 25章31~40節 「小さい者の一人に」
今日の箇書は、実はそう単純ではありません。小さい者(=主)が飢えていたときに食べさせたのかどうか、のどが渇いていたときに飲ませたかどうか、旅をしていたときに宿を貸したかどうか、裸のときに着せたかどうか、病気のときに見舞ったかどうか、牢にいたときに訪ねたかどうか、これらについて人間の側に自覚がないのです。いわば身に覚えがないことをもって、「わたし」である「王」、すなわち主イエスに対して行ったか、あるいは行わなかったかが問われ、同時に審かれてしまうのです。乱暴な言い方をすれば、祝福されることも審かれることも、いずれにせよ理不尽な仕方でなされるのです。言われる側からはどうすることもできないのです。言われる側の努力や生活態度などの、どこをどうしたらよかったのかは示されていないのです。自分たちが何をしたのか、あるいは何をしなかったのかという自覚なしに、身に覚えのないことで祝福か審きが与えられてしまうことになります。
善と悪の判断基準は、「わたし」と語りかけるところの「王」である主イエスにしかないのだ、つまり、人間の側から判断する善や正しいこと、正義など良きこととされる一切は、神の前には無であると示しているのではないでしょうか。このように聖書は、わたしたち人間の作り上げた倫理を解体することによって、主イエスの側からのみの倫理を提出しているように思えるのです。つまり、人としてどうあるべきかという倫理の問題は、主イエスがどうであったかを基準にして、主イエスに対してなされる時にこそ、本当として働くのだということです。ですから、それがいかに優れており誠実で真面目で嘘がないものであったとしても、本当の働きに至る人間の側からの道は一切閉ざされているということなのです。主イエスの働きから導かれるところの主イエスに対する働きにおいて、事が起こされる、倫理が動き始めるということがあるのだと確認できるように思われます。
この方向性においてのみ、つまり主イエスがキリストであること。この方の言葉と振る舞いにおいてのみ「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」が出来事としてなるのだというのです。主イエスの思い、願い、考え、判断、決断から示される道のみが、わたしたちの道だということです。神を愛し、隣人を愛するという主イエスの道から始まるのです。わたしたちが小さい者の一人に出会うところに主イエスは共におられる、そう信じる道から離れないように祈るのです。
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