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2023年11月

2023年11月26日 (日)

マタイによる福音書 25章31~40節 「小さい者の一人に」

 今日の箇書は、実はそう単純ではありません。小さい者(=主)が飢えていたときに食べさせたのかどうか、のどが渇いていたときに飲ませたかどうか、旅をしていたときに宿を貸したかどうか、裸のときに着せたかどうか、病気のときに見舞ったかどうか、牢にいたときに訪ねたかどうか、これらについて人間の側に自覚がないのです。いわば身に覚えがないことをもって、「わたし」である「王」、すなわち主イエスに対して行ったか、あるいは行わなかったかが問われ、同時に審かれてしまうのです。乱暴な言い方をすれば、祝福されることも審かれることも、いずれにせよ理不尽な仕方でなされるのです。言われる側からはどうすることもできないのです。言われる側の努力や生活態度などの、どこをどうしたらよかったのかは示されていないのです。自分たちが何をしたのか、あるいは何をしなかったのかという自覚なしに、身に覚えのないことで祝福か審きが与えられてしまうことになります。

 善と悪の判断基準は、「わたし」と語りかけるところの「王」である主イエスにしかないのだ、つまり、人間の側から判断する善や正しいこと、正義など良きこととされる一切は、神の前には無であると示しているのではないでしょうか。このように聖書は、わたしたち人間の作り上げた倫理を解体することによって、主イエスの側からのみの倫理を提出しているように思えるのです。つまり、人としてどうあるべきかという倫理の問題は、主イエスがどうであったかを基準にして、主イエスに対してなされる時にこそ、本当として働くのだということです。ですから、それがいかに優れており誠実で真面目で嘘がないものであったとしても、本当の働きに至る人間の側からの道は一切閉ざされているということなのです。主イエスの働きから導かれるところの主イエスに対する働きにおいて、事が起こされる、倫理が動き始めるということがあるのだと確認できるように思われます。

 この方向性においてのみ、つまり主イエスがキリストであること。この方の言葉と振る舞いにおいてのみ「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」が出来事としてなるのだというのです。主イエスの思い、願い、考え、判断、決断から示される道のみが、わたしたちの道だということです。神を愛し、隣人を愛するという主イエスの道から始まるのです。わたしたちが小さい者の一人に出会うところに主イエスは共におられる、そう信じる道から離れないように祈るのです。

 

2023年11月19日 (日)

コリントの信徒への手紙一 11章27~34節 「主イエスの食卓の回復」

 最後の晩餐が「聖餐」の聖書的な根拠となっていることは確かです。しかし、主イエスの食卓の場面は福音書に数多く記されています。「罪人」「徴税人」たち、あるいは大勢の人々との食卓などがあります。これらが濃縮されて最後の晩餐に集約されている、つまり、主イエスの食卓は最後の晩餐に至るまでに意味が広がり、深まってきていると考えるのです。パウロのコリント教会に対する、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」という怒りの元には、主イエスの食卓に対する共鳴があると思うのです。誰かを排除する食卓、食べられない人を無視したり、思いを寄せることをしないこと、これらは主イエスの食卓には「ふさわしくない」のです。

 わたしたちの住む国で、何十万円もする食事を楽しむ人々がいる一方、給食以外の食事にありつけない子どもたちがいます。その格差を僅かでも埋めるべく「子ども食堂」や炊き出しなどを提供する人々がいます。主の食卓に連なると言えるでしょう。

 清らかで厳粛な宗教儀礼としてではなく、主イエスが自らをかけて行った数々の食卓の場面を思い返し、最後の晩餐に至る道筋から「聖餐」をあえて祝いたいと願います。「聖餐式」は、傍から見たら幼稚なママゴトに過ぎないのかもしれません。キリスト教徒の自己満足にすぎないのかもしれません。

 しかし、それでも主イエスの食卓の回復を映し出す儀式でありたいと願うのです。わたしたちの多くは、比較的貧困ではないと言えるでしょう。わたしたちは、この意味において、食べられない人たちを思いながらも食べることができてしまっているという、食にまつわる後ろめたさの塊のような存在なのかもしれません。主イエスの食卓を回復することを「聖餐」に映し出し、祈りを込めたいと思うのです。誰一人取り残されることなく、思う存分食べることのできる世界、それは決して夢物語ではなく、やがて来るはずだと信じたいのです。

 主イエスの活動されたパレスチナでは、今、食べ物も水すらない状態で攻撃にさらされている人たちがいます。その映像を目にしながら日々満腹できている側の者が何を吞気なことを、という思いも胸に突き刺さります。それでも、この願いのもとで主の食卓の回復を祈りたいのです。

 パウロの語るところの「ふさわしくないままで」という状況がこの国の中に限らず世界中に満ち溢れている状態があります。ここから、「聖餐」を祝いつつ、「飯が天です ああ 飯はみんながたがいに分かち食べるもの」(金芝河)という世界に至るために祈るのです。主イエス・キリストはその身をパンとブドウ液という象徴において差し出されていることを、「聖餐」という儀式を通して心に刻みたいのです。このようにご一緒に確認し、来るべき神の国へのお思いと心を寄せるものとして整えられたいと願います。

2023年11月12日 (日)

マタイによる福音書 28章20節 「イエスさまと一緒に」

~子ども祝福礼拝~

 主イエスの語る、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とは、どういうことでしょうか。この世界の初めは神さまが創りました。初めがあるなら終わりもあるはずです。その終わりがいつになるのかは誰にもわかりませんが、その時まで主イエスはずっと一緒にいてくださるのだというのです。今生きている人の中で、主イエスを実際に見たことがある人は、誰もいません。でも、教会は見えない主イエスだけれども一緒にいてくださるのだと信じています。

 主イエスを見ることはできません。でも不思議な風が働くところにはどこにでも主イエスは一緒にいてくださるのです。あなたとわたしの間、友だちや家族などとの間で、嬉しいことでも悲しいことでも、どこかで心が通じ合っていたり、心を寄せているところにはどこにでも、です。主イエスの願いはすべての人に「幸い」という祝福が届けられていくことです。「幸い」が届けられるのは、ただ自分にとって都合の良い「幸せ」を感じているところだけではありません。食べるものがないところ、怪我や病気などとてもつらいところ、主イエスの願いが届けられているなんて信じられないところにまで届いていく、不思議な風のような聖霊の働きによって主イエスはいつも一緒なのです。

 この主イエスは今日もまた、わたしたちと一緒にいてくださるのです。そして、わたしたちという顔見知りの人たちの間にだけではなくて、まだ会ったこともない世界中の人たちと心がつながっていく道があるのだとも信じることができるのです。主イエスの願っている本当の「平和」を願い、祈り求めていこうとするところには、もうすでに主イエスが待っていてくださることを信じることができるのです。

本当に悲しいことですが、今、世界は「平和」ではありません。そして、わたしたちも毎日がうれしくて楽しいことばかりではありません。けれども、主イエスは世界中で起こっていることや、わたしたちの毎日を全部見守っていてくださるのです。そして、人と人との間に一緒にいてくださるのです。

 わたしたちは毎日の生活の中で「神さまがいつも共にいてくださる(インマヌエル)」ことを忘れてしまいがちです。だから、「インマヌエル」を繰り返し、安心を取り戻すのです。今日は子ども祝福の礼拝ですが、「祝福」というのは、この「インマヌエル」を心と身体の隅々にまで行き渡らせることです。神としての主イエスが、聖霊として、見えないけれども今も生きて働いていてくださるのです。

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