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2023年10月22日 (日)

ヨハネによる福音書 17章3節 「永遠のいのち」

 今日の聖書は次のように語ります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」。この言葉からわたしたちが考えがちなのは、「肉体は滅んでも霊ないし魂は不滅である。」あるいは、「肉体という牢獄に閉じ込められた魂は、その死によって解放される」などかもしれません。しかし、「永遠のいのち」とは、主イエス・キリストの神について知ること、つまり認識です。人はどこから来て、どこに行くのかを知っているのか、ということです。永遠の過去から永遠の将来において主イエス・キリストが今を支えているがゆえに、わたしたちは今、救いの約束が実現されているという認識です。主イエス・キリストは、その生涯、十字架の処刑による死、復活、昇天をもって、そして天にありつつ聖霊の働きによって、「今」を支えるのです。ちょうどハイデルベルク信仰問答59の答えにあるように、です。「わたしが、キリストにあって神の御前に義とされ、そして永遠の生命の相続人となる」と。

 このあり方から、わたしたちは、自らのこの世における死の現実が、主イエスにおける永遠によって支えられているがゆえに、この世の基準や価値観である「生から死」という方向から「死からいのち」という方向によって守られていること、「永遠のいのち」という賜物のもとで今のいのちが祝福されていることが知らされるのです。ここに「永遠のいのち」を知る信仰があります。だからこそパウロは「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と語ることができたのです。

 農村伝道神学校の初代校長ストーン宣教師は、洞爺丸の事故の際、救命具を譲って命を落としました。彼は、この「永遠のいのち」を自身の存在丸ごとで受け止めていたからこそ、躊躇なく救命具を譲ったのではないかと思うのです。「友のために命を捨てる」という行為は、ただ自己犠牲的な愛によって導かれたのではなく、「永遠のいのち」を知る強さに支えられていたのだろうと。

 わたしたちは、この世における死が得体のしれないこと、おそるべきこと、悲しむべきことであることを確かに知っています。このことは主イエスご自身も知っていたことです。だからこそ、この杯を取り除いてほしいとゲッセマネの園で祈られたのです。主イエスは十字架刑によって殺され、無残な死を迎えました。しかし復活者として死に勝利したのです。この主イエス・キリストの守りのうちにあることは、すでにその復活の力により、今、「永遠のいのち」の賜物に与りながら歩むことへと招かれているということであり、その意義をもってわたしたちは「永遠のいのちを信ず」と告白することが赦されているのです。どこから来て、どこに向かうのかが約束されてある今を覚えご一緒に祈りましょう。」

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