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2023年10月15日 (日)

テサロニケの信徒への手紙二 3章16節 「共に福音に生きる」

「キリスト教教育週間」を覚えて

 先ほど観たスライド「カンボジア アガペホーム子どもたちに神さまの愛と教育を」は、日本キリスト教協議会教育部によって提供されたものですが、「日本バプテスト女性連合」が作成したものです。

 アガペホームは2人のインドの宣教師によって2005年から始められています。親と暮らせない子どもを引き取って一緒に暮らしながら学校に通わせています。この、子どもの家の活動アガペホームの働きは、とても小さなものかもしれません。それでも教育はとても大切です。教育とはただ単に知識を詰め込み、試験に合格し、有名大学に入学し、大手企業や官僚になるという、いわば「エリートコース」に乗るための方法ではありません。この世の価値観における上昇志向に追随するものでもありません。

 今日の聖書で主イエスの言うところの「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」という価値観に共鳴する方向性においてではなく、人間の間の上下関係や優劣関係、権力関係を相対化しつつ、「仕える者」「僕」としての生き方を学ぶことこそが教育の意味なのではないでしょうか。この点については、青山学院短大で長らくキリスト教教育を教えてこられた水野誠先生の言われる「教育が飼育になってはならない」と同じだと思います。言い換えれば、学校教育が、良い大学良い就職へと促す飼育になっていないか、との警告です。教育には自分で考え自分の言葉にしていくことこそが必要なのです。そして教育の目的は何かしらの権力や大きな勢力や力に寄り添い、要領よく生きることなのではなくて、自分が不利になることや孤立することを怖れることなく、正しい意味での「正義」を求めていくことと違いはないのです。教育とは、人との関わりや対話によって自らの過ちや勘違いなどに「気づく」ということ、そして、ならばどうしたらいいのかを思い巡らすことをも含む広い意味を持つのです。

 省みてわたし自身を含め多くの人々は、果たして教育の意味や意義を自ら主体的に考えているのでしょうか。行動しているでしょうか。今日のスライドはわたしたちの学びです。「キリスト教教育週間」の「教育」は、わたしたちにも向けられているのではないでしょうか。カンボジアのアガペホームの子どもたちに思いを寄せ、連帯し共鳴できるような教育的な態度を自らの課題とするきっかけになるのではないかと思います。このような意味での教育を教会の働きの中に取り入れていくことは、「共に福音に生きる」方向性を整えていくことと決して別の事柄ではないと思うのです。

 

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