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2023年10月

2023年10月29日 (日)

マタイによる福音書 5章13~16節 「街の教会」

 主イエスは、「地の塩」「世の光」「である」とわたしたちに向かって断言されています。これは、驚くべき言葉です。いったいわたしたちに何の資格や能力、この世に対して働きかける言葉や力などがあるというのでしょうか。自らを省みれば何の取柄もないと言うしかないのではないのではないと思えます。今あるがままのわたしたちの姿を主イエスは「地の塩」「世の光」「である」との言葉は、つまりは、わたしたちの能力や努力によっているのではないことを潔く認める必要があるということだろうと思います。「塩」であることも「光」であることも、いずれにせよわたしたち自らを根拠にした言葉、宣言ではないのです。主イエスが語っているがゆえにこそ、その根拠があります。

 今日の午後、わたしたちはバザーを開催します。わたしたちが、この街の中にある暗い部分に対して「塩」としての役割を担うことや、「光」としての働きによって何かしらの問題解決や暮らしやすさの一端を担うことなどはできないかもしれません。しかし、それでも「ここに教会がある」のだと、バザーを行うことによって少しばかり示すことはできるのではないでしょうか。小さな交わりの業かもしれません。ささやかな働きなのかもしれません。16節には「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあります。もちろん、わたしたちのバザーが普通言うところの「立派な行い」だということではありません。しかし、長い目で見れば「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」道は決して閉ざされてはいないことを信じることはできます。そして、そのことが「天を指し示す」すなわち「立派な行い」になっていくのです。

 ここに教会があり、この教会は「地の塩」「世の光」「である」との宣言による委託のもとで歩んでいることの証しに少しばかりでも参与できたなら、大成功と言ってもいいのではないでしょうか。教会は、主イエスにあって神を愛することと隣人を愛することを教えられています。そのあり方が「地の塩」「世の光」「である」と受け止められるところなのだとして、「ここに教会がある」ことを恵みとして受け止めたいのです。

2023年10月22日 (日)

ヨハネによる福音書 17章3節 「永遠のいのち」

 今日の聖書は次のように語ります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」。この言葉からわたしたちが考えがちなのは、「肉体は滅んでも霊ないし魂は不滅である。」あるいは、「肉体という牢獄に閉じ込められた魂は、その死によって解放される」などかもしれません。しかし、「永遠のいのち」とは、主イエス・キリストの神について知ること、つまり認識です。人はどこから来て、どこに行くのかを知っているのか、ということです。永遠の過去から永遠の将来において主イエス・キリストが今を支えているがゆえに、わたしたちは今、救いの約束が実現されているという認識です。主イエス・キリストは、その生涯、十字架の処刑による死、復活、昇天をもって、そして天にありつつ聖霊の働きによって、「今」を支えるのです。ちょうどハイデルベルク信仰問答59の答えにあるように、です。「わたしが、キリストにあって神の御前に義とされ、そして永遠の生命の相続人となる」と。

 このあり方から、わたしたちは、自らのこの世における死の現実が、主イエスにおける永遠によって支えられているがゆえに、この世の基準や価値観である「生から死」という方向から「死からいのち」という方向によって守られていること、「永遠のいのち」という賜物のもとで今のいのちが祝福されていることが知らされるのです。ここに「永遠のいのち」を知る信仰があります。だからこそパウロは「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と語ることができたのです。

 農村伝道神学校の初代校長ストーン宣教師は、洞爺丸の事故の際、救命具を譲って命を落としました。彼は、この「永遠のいのち」を自身の存在丸ごとで受け止めていたからこそ、躊躇なく救命具を譲ったのではないかと思うのです。「友のために命を捨てる」という行為は、ただ自己犠牲的な愛によって導かれたのではなく、「永遠のいのち」を知る強さに支えられていたのだろうと。

 わたしたちは、この世における死が得体のしれないこと、おそるべきこと、悲しむべきことであることを確かに知っています。このことは主イエスご自身も知っていたことです。だからこそ、この杯を取り除いてほしいとゲッセマネの園で祈られたのです。主イエスは十字架刑によって殺され、無残な死を迎えました。しかし復活者として死に勝利したのです。この主イエス・キリストの守りのうちにあることは、すでにその復活の力により、今、「永遠のいのち」の賜物に与りながら歩むことへと招かれているということであり、その意義をもってわたしたちは「永遠のいのちを信ず」と告白することが赦されているのです。どこから来て、どこに向かうのかが約束されてある今を覚えご一緒に祈りましょう。」

2023年10月15日 (日)

テサロニケの信徒への手紙二 3章16節 「共に福音に生きる」

「キリスト教教育週間」を覚えて

 先ほど観たスライド「カンボジア アガペホーム子どもたちに神さまの愛と教育を」は、日本キリスト教協議会教育部によって提供されたものですが、「日本バプテスト女性連合」が作成したものです。

 アガペホームは2人のインドの宣教師によって2005年から始められています。親と暮らせない子どもを引き取って一緒に暮らしながら学校に通わせています。この、子どもの家の活動アガペホームの働きは、とても小さなものかもしれません。それでも教育はとても大切です。教育とはただ単に知識を詰め込み、試験に合格し、有名大学に入学し、大手企業や官僚になるという、いわば「エリートコース」に乗るための方法ではありません。この世の価値観における上昇志向に追随するものでもありません。

 今日の聖書で主イエスの言うところの「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」という価値観に共鳴する方向性においてではなく、人間の間の上下関係や優劣関係、権力関係を相対化しつつ、「仕える者」「僕」としての生き方を学ぶことこそが教育の意味なのではないでしょうか。この点については、青山学院短大で長らくキリスト教教育を教えてこられた水野誠先生の言われる「教育が飼育になってはならない」と同じだと思います。言い換えれば、学校教育が、良い大学良い就職へと促す飼育になっていないか、との警告です。教育には自分で考え自分の言葉にしていくことこそが必要なのです。そして教育の目的は何かしらの権力や大きな勢力や力に寄り添い、要領よく生きることなのではなくて、自分が不利になることや孤立することを怖れることなく、正しい意味での「正義」を求めていくことと違いはないのです。教育とは、人との関わりや対話によって自らの過ちや勘違いなどに「気づく」ということ、そして、ならばどうしたらいいのかを思い巡らすことをも含む広い意味を持つのです。

 省みてわたし自身を含め多くの人々は、果たして教育の意味や意義を自ら主体的に考えているのでしょうか。行動しているでしょうか。今日のスライドはわたしたちの学びです。「キリスト教教育週間」の「教育」は、わたしたちにも向けられているのではないでしょうか。カンボジアのアガペホームの子どもたちに思いを寄せ、連帯し共鳴できるような教育的な態度を自らの課題とするきっかけになるのではないかと思います。このような意味での教育を教会の働きの中に取り入れていくことは、「共に福音に生きる」方向性を整えていくことと決して別の事柄ではないと思うのです。

 

2023年10月 8日 (日)

マタイによる福音書9章9~13節 ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節 「聖マタイの召命」角川太郎神学生(農村伝道神学校)

 本日は上大岡教会にお招きいただき誠にありがとうございます。農村伝道神学校2年の角川太郎と申します。神学生や牧師を目指している方は召命感を問われる機会が少ないと思います。

 では召命とは一体何なのでしょうか。召命について、16世紀のバロックを代表する天才画家カラヴァッジョが描いた「聖マタイの召命」を通して、皆さまと一緒に考えてみたいと思います。本作は、本日の聖書箇所マタイによる福音書9:9-13の一場面です。みすぼらしい服装をした素足のイエスと聖ペテロが右側から近づいてきます。中央に腰掛ける三人の男性は、イエスがやってきたことに気づいていますが、左側の二人の男性は気づかずにじっとお金を勘定しているようです。これは、徴税人であったマタイのもとにキリストが現れ「私に従いなさい」と言った瞬間です。

 この作品に関して、美術研究者の間で常に論争になっています。それは、一体誰がマタイなのかという問題、いわゆる「マタイ論争」です。絵の中央に位置する「私ですか」と自分のことを指さすようにみえる中年の髭の人物がマタイか、それとも左側に位置する一心不乱にお金を数えている若者がマタイか。皆さまは、どちらがマタイだと思われますか。

 イエスは、中年の髭の男性、あるいはお金を数えている若い男性のどちらかを指差したのではなく、その場所にいた全員に指差していたのではないでしょうか。

 イエスの公生涯を通してみると、イエスは、当時のユダヤの規範に反して、さまざまな人々、例えば罪人、病人、異邦人、女性たちとの境界線を越えて共にいてくださいました。すなわち、イエスは、徴税所にいた全員を招いてくださった。それに気づいて応答して立ち上がったのはマタイだけだったと思います。召命というと、特別に選ばれた者というイメージがありますが、実は、全ての者が招かれていて、それに気づいた、気づいてないだけなのではないでしょうか。私には、そう思えてならないのです。

 選ばれたという感情は、時に人を傲慢にしてしまう。選ばれたのではない、主の招きに気づいただけという気持ちで、驕ることなく謙虚に、マタイ福音書における神への愛と人への愛に生きることをいつも心にとめていたい。

 そのような心があれば、そしてマタイのように呼びかけに、少しでも多くの人々が応答して立ち上がってくれれば、世界の争いによって、嘆き悲しみ小さく弱くされた者を少なくすることができるのではないでしょうか。誰もが徴税人、誰もがマタイになれる。そのような世界が来ることを、心よりお祈りいたしましょう。

2023年10月 1日 (日)

ローマの信徒への手紙 6章3~4節 「洗礼によって」

(世界聖餐日)

 洗礼式は、主イエス・キリストを信じ従うことを神と人の前で明らかにすることによって、具体的な教会の一員になるという入会の儀式です。来るべき日・終末に向かいつつ、この世を旅するなかで一緒に教会を作り上げていく教会の仲間となることです。教会における責任と義務とが与えられることでもあります。キリスト者になるということは、具体的などこかの教会に所属しなければならないのです。

 教会が洗礼を行う根拠は、まず主イエスご自身が洗礼者ヨハネから受けたという事実にあります。ヨハネの洗礼は「罪の赦しをえさせる」目的であったと福音書は証言しています。しかし、主イエスに赦されなければならない罪があったのでしょうか。確かに、ユダヤ教の権力やローマの権力の側からすれば、神を冒涜したことや反逆者であったとの判断から犯罪者として当時最も忌み嫌われていた恐るべき十字架によって処刑されました。しかしこの十字架は神の側からすれば、罪ではありません。マルコによる福音書の主イエスの洗礼の記事によれば「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞かれました。神の側からすれば、愛する御子であり、神の心に適う者として確信があったのです。その神の思いの通り、当時のユダヤにあって、より小さくより弱くより儚くより悲しくされていた人たちの、まことの友であり仲間として、主イエスは「共に喜び共に泣く」歩みを続けたのです。人の丸ごとのいのちは上下、優劣には一切関わりなく、差別なく神から喜ばれ祝福されているという事実に固く立ち、神の「心に適う者」として主イエスは生涯を全うしたのです。

洗礼式におけるいのちの方向はこの世の理解とは異なります。わたしたちの通常の理解では、この世に生まれ出たいのちは幼い状態から成長し、年齢を重ね死に向かうというものです。これは確かに客観的な事実です。しかし、教会の理解は「いのちから死」なのではなく「死からいのち」なのです。

 主イエス・キリストを信じ、従うことを少しでも願っているなら洗礼は受けるべきです。洗礼は人を救うのです。救うと言っても悩みのない人生や毎日が喜びに満ち溢れているという暮らしが待ち受けているわけでは必ずしもありません。信じ従うべき主イエス・キリストは十字架に磔られた方です。安易な生き方など似合いません。より困難な生き方が待ち受けているかもしれません。より悩み多い人生なのかもしれません。しかし、十字架の主イエス、復活の主イエスに守られた人生の始まりです。主イエスが他者と共に生きた、その生き方に倣いつらなる恵みへと招かれている本当が事実となるのです。主イエスの受けられた洗礼によって、わたしたちが新しいいのちへと生きることの恵みをご一緒に確認したいのです。洗礼があるからこそ、主イエスに倣い、信じ従う道を祈りつつ模索して生きたいのです。

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