コリントの信徒への手紙一 12章12~26節 「聖徒の交わり」
教会は、「聖徒の交わり」です。というと、主イエス・キリストを信じる人たちとその群れが即「聖」であると受け止められがちです。しかし、実際はどうでしょうか。人びとの集まりに過ぎません。およそこの世で起こりうるあらゆる悪しき事柄は、教会においてもあると言わざるを得ません。それでも、教会は、「聖徒の交わり」なのです。それは、教会につらなる一人ひとりとその群れ自身が「聖」なるものなのではなくて、主イエス・キリストが「聖」であるからというのが理由です。主イエスをキリストと告白する教会はすべて「聖」なるものです。主イエス・キリストによって呼び集められているという限定においてです。また、教会とは来るべき日・終末が到来すれば無用のものとなる暫定的なものでもあります。それでも、その日に至るまで、主イエスの名によって集められ、あらゆる悪の危険にさらされながらも「赦された罪人ら」として教会は「聖」であるのです。
1章2節には次のようにあります。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」。パウロga
コリントの信徒へ向けて書いたこの手紙を読み進めていくと、分派争いや食卓を巡る、富んでいる者と貧しい者との問題などが山積みです。とても「聖」なる姿ではありません。しかし、パウロはこの手紙の書きだし部分で「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と語りかけているのです。それは主イエス・キリストがまことの意味での「聖」であるがゆえに、教会は様々な問題を抱えながらも「聖」とされていく途上にあることを希望のもとに語りかけているのです。
今日のテキストは非常に有名なところです。教会につながる一人ひとりを体の一部分として喩えることで、それぞれにおいて優劣や上下の関係のもつれを解いていくように促すのです。「お前は要らない」「お前たちは要らない」こうした言葉は教会には相応しくないというのです。
「キリストの体」の「部分」である一人ひとりとしてのわたしたちは、主イエス・キリストによって、すなわち十字架と復活の業によって、完全に、安心が、無条件に「ある」と保障され「聖徒の交わり」へと導かれる存在なのです。この事実に応答することをまず祈りと賛美によって応えていく中で、広い意味での伝道へと派遣されていくのではないでしょうか。
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