使徒言行録 2章37~38節 「罪の赦し」
ペトロは、元々それほど立派で清廉潔白で純粋無垢の人間ではありません。主イエスに対する裏切り者と呼んでも言い過ぎではないことが福音書から読み取ることができます。生前の主イエスとの活動における彼の姿を思い起こしていただきたいのですが、勘違いや無理解を何度も重ねてきた軽薄さから自由でなかったのです。その極みが、主イエスが逮捕されてしまった時に表されています。三度にわたって主イエスのことを「知らない」と言い募ったのです(ルカ22:61~62)。仲間だと知られたら同じ目に合うかもしれないという恐怖心や脅えから自分の身を守るために放った言葉です。ペトロは主イエスを重ねて知らないと語ることで見捨てた、しかし主イエスは決してペトロを見捨てることはしなかったのです。「振り向いてペトロを見つめられた」主イエスの眼差しを愛そのものだと感じたのではないでしょうか。裏切り者であり卑怯者であり、弱虫であり、情けなさと無力さの塊のようなペトロを穏やかに包み込む主イエスの眼差しによって、全身が丸ごとのあるがままのペトロが赦しに包まれる経験をしてしまったのではないでしょうか。この時の「激しく泣いた」姿が、後悔や自己嫌悪から感謝と喜びへと転じていったのではないかと思うのです。このことへの感謝が復活という出来事によって支えられ、ペトロは主イエスの証人として、今日の箇書にあるように説教できる者となったのです。
主イエス・キリストの贖いにおける罪の赦しに与って歩む道が備えられていることは、信じ従うものに希望と勇気を与えます。今日の聖書ではペトロは使徒として理想的に描かれています。基本的にはキリストの証人としての生涯を全うしたのでしょう。しかし、この使徒ペトロにおいても優柔不断さやいい加減さが残されていたことはが分かります(ガラテヤ2:11以下のいわゆる「アンティオキアの衝突」参照)。ある意味人間味をも感じるところです。「罪の赦し」に与って生きることは、完全無欠な人間になることではありません。欠けのある人間です。それでも「罪の赦し」のゆえに、的を外してしまう「罪」から、主イエスからの問いかけによって生き方の方向性を転換していく悔い改めへと導かれるのです。他者との関係も「赦された罪人」同士という理解に立ちながら歩みたいと願います。「赦された罪人」である自分が、相手をも「赦された罪人」として接することは、相手に非を認めた時に不問に付す、ということではなくて、新しく対話を続けながら、お互いが主イエスにあって「赦されている」仲間としてつながり、共感していき生き方を模索していくことでもあるでしょう。
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