コリントの信徒への手紙一 1章1~3節 「公同の教会」
「聖なる公同の教会」を目指すには、有名な金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」の方向は不可欠だと思います。ここには、主イエスの自由な福音に対する共鳴があるように思われます。
私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。
みんなが違っていることが許されない集団は、宗教も含め不自由だと思えるし、窮屈です。安易に一致することに安心や快感を覚えてしまうと、少しでも違和感があるような他者を排除しようとしてしまうのが人間の性なのかもしれません。
これらを踏まえた上で、それでもお互いの違いを認め合いながらも一致を求めていく方向性こそを「聖なる公同の教会」これを信じるのだという態度だと考えたいのです。
主イエスは、違いのある人たちとの付き合いの中での一致を目指し生きたのだとわたしは考えています。たとえば、「徴税人や罪人」と共に過ごされたことが記されています。この書き方から「徴税人」と呼ばれる人たちと「罪人」と呼ばれる人たちがお互いに仲間であったかのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではなかったし、「罪人」と一括りにされる人たち同士でも、お互いにアイツらとは違うという意識があったと考えられます。主イエスにあっては、「罪人」という言葉の中身は、優劣や上下の関係という違いを乗り越えた上での人々の集まりであったのです。その上で、主イエスにあって、「赦された」つまり受け入れられていることにおいて、「罪人」のレベルやランクが無化されているのではないでしょうか。主イエスの呼びかけを受け、招かれていることによってです。お互いに違いを受け入れ合う中で自分らしく生きること、このことを認め合える関係が育てらていく場として教会は在るのだろうと思います。ここにこそ、「聖なる公同の教会」である「見えざる教会」を目指す「見える教会」につらなるわたしたちの今という現実が支えられているのではないでしょうか。
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