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2023年10月 1日 (日)

ローマの信徒への手紙 6章3~4節 「洗礼によって」

(世界聖餐日)

 洗礼式は、主イエス・キリストを信じ従うことを神と人の前で明らかにすることによって、具体的な教会の一員になるという入会の儀式です。来るべき日・終末に向かいつつ、この世を旅するなかで一緒に教会を作り上げていく教会の仲間となることです。教会における責任と義務とが与えられることでもあります。キリスト者になるということは、具体的などこかの教会に所属しなければならないのです。

 教会が洗礼を行う根拠は、まず主イエスご自身が洗礼者ヨハネから受けたという事実にあります。ヨハネの洗礼は「罪の赦しをえさせる」目的であったと福音書は証言しています。しかし、主イエスに赦されなければならない罪があったのでしょうか。確かに、ユダヤ教の権力やローマの権力の側からすれば、神を冒涜したことや反逆者であったとの判断から犯罪者として当時最も忌み嫌われていた恐るべき十字架によって処刑されました。しかしこの十字架は神の側からすれば、罪ではありません。マルコによる福音書の主イエスの洗礼の記事によれば「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞かれました。神の側からすれば、愛する御子であり、神の心に適う者として確信があったのです。その神の思いの通り、当時のユダヤにあって、より小さくより弱くより儚くより悲しくされていた人たちの、まことの友であり仲間として、主イエスは「共に喜び共に泣く」歩みを続けたのです。人の丸ごとのいのちは上下、優劣には一切関わりなく、差別なく神から喜ばれ祝福されているという事実に固く立ち、神の「心に適う者」として主イエスは生涯を全うしたのです。

洗礼式におけるいのちの方向はこの世の理解とは異なります。わたしたちの通常の理解では、この世に生まれ出たいのちは幼い状態から成長し、年齢を重ね死に向かうというものです。これは確かに客観的な事実です。しかし、教会の理解は「いのちから死」なのではなく「死からいのち」なのです。

 主イエス・キリストを信じ、従うことを少しでも願っているなら洗礼は受けるべきです。洗礼は人を救うのです。救うと言っても悩みのない人生や毎日が喜びに満ち溢れているという暮らしが待ち受けているわけでは必ずしもありません。信じ従うべき主イエス・キリストは十字架に磔られた方です。安易な生き方など似合いません。より困難な生き方が待ち受けているかもしれません。より悩み多い人生なのかもしれません。しかし、十字架の主イエス、復活の主イエスに守られた人生の始まりです。主イエスが他者と共に生きた、その生き方に倣いつらなる恵みへと招かれている本当が事実となるのです。主イエスの受けられた洗礼によって、わたしたちが新しいいのちへと生きることの恵みをご一緒に確認したいのです。洗礼があるからこそ、主イエスに倣い、信じ従う道を祈りつつ模索して生きたいのです。

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