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2023年9月

2023年9月24日 (日)

使徒言行録 2章37~38節 「罪の赦し」

 ペトロは、元々それほど立派で清廉潔白で純粋無垢の人間ではありません。主イエスに対する裏切り者と呼んでも言い過ぎではないことが福音書から読み取ることができます。生前の主イエスとの活動における彼の姿を思い起こしていただきたいのですが、勘違いや無理解を何度も重ねてきた軽薄さから自由でなかったのです。その極みが、主イエスが逮捕されてしまった時に表されています。三度にわたって主イエスのことを「知らない」と言い募ったのです(ルカ226162)。仲間だと知られたら同じ目に合うかもしれないという恐怖心や脅えから自分の身を守るために放った言葉です。ペトロは主イエスを重ねて知らないと語ることで見捨てた、しかし主イエスは決してペトロを見捨てることはしなかったのです。「振り向いてペトロを見つめられた」主イエスの眼差しを愛そのものだと感じたのではないでしょうか。裏切り者であり卑怯者であり、弱虫であり、情けなさと無力さの塊のようなペトロを穏やかに包み込む主イエスの眼差しによって、全身が丸ごとのあるがままのペトロが赦しに包まれる経験をしてしまったのではないでしょうか。この時の「激しく泣いた」姿が、後悔や自己嫌悪から感謝と喜びへと転じていったのではないかと思うのです。このことへの感謝が復活という出来事によって支えられ、ペトロは主イエスの証人として、今日の箇書にあるように説教できる者となったのです。

 主イエス・キリストの贖いにおける罪の赦しに与って歩む道が備えられていることは、信じ従うものに希望と勇気を与えます。今日の聖書ではペトロは使徒として理想的に描かれています。基本的にはキリストの証人としての生涯を全うしたのでしょう。しかし、この使徒ペトロにおいても優柔不断さやいい加減さが残されていたことはが分かります(ガラテヤ211以下のいわゆる「アンティオキアの衝突」参照)。ある意味人間味をも感じるところです。「罪の赦し」に与って生きることは、完全無欠な人間になることではありません。欠けのある人間です。それでも「罪の赦し」のゆえに、的を外してしまう「罪」から、主イエスからの問いかけによって生き方の方向性を転換していく悔い改めへと導かれるのです。他者との関係も「赦された罪人」同士という理解に立ちながら歩みたいと願います。「赦された罪人」である自分が、相手をも「赦された罪人」として接することは、相手に非を認めた時に不問に付す、ということではなくて、新しく対話を続けながら、お互いが主イエスにあって「赦されている」仲間としてつながり、共感していき生き方を模索していくことでもあるでしょう。

2023年9月17日 (日)

イザヤ書 46章4節 「人生を導く神」

(高齢者の日礼拝)

 今日の聖書です。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」。これらの言葉を、わたしたちが故郷に帰るイメージとして解釈してみたいと思います。神の息によって造られたわたしたちは神に背負われている存在であることが宣言されています。第二イザヤの文脈によれば、バビロン捕囚から解放されて故郷であるイスラエル、ユダの地、やがて復興され中心となるエルサレムに向かうことが歌われています。しかし、今日はその場を天国ないしは神の国として読んでみたいと思います。

 讃美歌484の『主われを愛す』の1番によれば、「主われを愛す」がゆえに「恐れはあらじ」として今を受け入れて、OKとする信仰です。主イエスが愛してくださっているがゆえに、歳を重ねることにまつわるマイナスに見える事柄一切を含めながら、全面的にその一人ひとりの丸ごとのいのちが受け入れられて祝福されてしまっている現実を、応答として賛美しているのです。歳を重ねていく中に人生を導く神の働きの本当・リアリティーが存在するのです。わたしたちのこの世における使命の中心には「主われを愛す」があります。この現実から人生は「本国は天」、つまり神の国・天国に向かっていくのです。神の国・天国とは、単なる死後の世界なのではありません。神の支配のことであり、その領域のことでもあります。主イエス・キリストの願いや思い、その優しさや慈しみの満ち満ちた世界であり場のことです。「御心が天になるごとく」が実現されている場です。わたしたちの導かれる人生の目標でもあります。

 主イエス・キリストによって保証され、守られ、確保されている世界観であり場に向かって人生を導く神が、年齢を重ね高齢を迎えた一人ひとりに語りかけているのです。それは、さらに言えば『主われを愛す』の3番の歌詞と共鳴するものです。「みくにの門を ひらきてわれを招きたまえり、いさみて昇らん。」。この道が人生を導く主イエス・キリストによって歳を重ねて高齢者とされている、お一人おひとりに備えられていることを信じ、ご一緒に祈りつつ歩みましょう。

2023年9月10日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章12~26節 「聖徒の交わり」

 教会は、「聖徒の交わり」です。というと、主イエス・キリストを信じる人たちとその群れが即「聖」であると受け止められがちです。しかし、実際はどうでしょうか。人びとの集まりに過ぎません。およそこの世で起こりうるあらゆる悪しき事柄は、教会においてもあると言わざるを得ません。それでも、教会は、「聖徒の交わり」なのです。それは、教会につらなる一人ひとりとその群れ自身が「聖」なるものなのではなくて、主イエス・キリストが「聖」であるからというのが理由です。主イエスをキリストと告白する教会はすべて「聖」なるものです。主イエス・キリストによって呼び集められているという限定においてです。また、教会とは来るべき日・終末が到来すれば無用のものとなる暫定的なものでもあります。それでも、その日に至るまで、主イエスの名によって集められ、あらゆる悪の危険にさらされながらも「赦された罪人ら」として教会は「聖」であるのです。

 1章2節には次のようにあります。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」。パウロga

 コリントの信徒へ向けて書いたこの手紙を読み進めていくと、分派争いや食卓を巡る、富んでいる者と貧しい者との問題などが山積みです。とても「聖」なる姿ではありません。しかし、パウロはこの手紙の書きだし部分で「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と語りかけているのです。それは主イエス・キリストがまことの意味での「聖」であるがゆえに、教会は様々な問題を抱えながらも「聖」とされていく途上にあることを希望のもとに語りかけているのです。

 今日のテキストは非常に有名なところです。教会につながる一人ひとりを体の一部分として喩えることで、それぞれにおいて優劣や上下の関係のもつれを解いていくように促すのです。「お前は要らない」「お前たちは要らない」こうした言葉は教会には相応しくないというのです。

 「キリストの体」の「部分」である一人ひとりとしてのわたしたちは、主イエス・キリストによって、すなわち十字架と復活の業によって、完全に、安心が、無条件に「ある」と保障され「聖徒の交わり」へと導かれる存在なのです。この事実に応答することをまず祈りと賛美によって応えていく中で、広い意味での伝道へと派遣されていくのではないでしょうか。

2023年9月 3日 (日)

コリントの信徒への手紙一 1章1~3節 「公同の教会」

 「聖なる公同の教会」を目指すには、有名な金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」の方向は不可欠だと思います。ここには、主イエスの自由な福音に対する共鳴があるように思われます。

私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが

飛べる小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のやうに たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。

 みんなが違っていることが許されない集団は、宗教も含め不自由だと思えるし、窮屈です。安易に一致することに安心や快感を覚えてしまうと、少しでも違和感があるような他者を排除しようとしてしまうのが人間の性なのかもしれません。

 これらを踏まえた上で、それでもお互いの違いを認め合いながらも一致を求めていく方向性こそを「聖なる公同の教会」これを信じるのだという態度だと考えたいのです。

 主イエスは、違いのある人たちとの付き合いの中での一致を目指し生きたのだとわたしは考えています。たとえば、「徴税人や罪人」と共に過ごされたことが記されています。この書き方から「徴税人」と呼ばれる人たちと「罪人」と呼ばれる人たちがお互いに仲間であったかのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではなかったし、「罪人」と一括りにされる人たち同士でも、お互いにアイツらとは違うという意識があったと考えられます。主イエスにあっては、「罪人」という言葉の中身は、優劣や上下の関係という違いを乗り越えた上での人々の集まりであったのです。その上で、主イエスにあって、「赦された」つまり受け入れられていることにおいて、「罪人」のレベルやランクが無化されているのではないでしょうか。主イエスの呼びかけを受け、招かれていることによってです。お互いに違いを受け入れ合う中で自分らしく生きること、このことを認め合える関係が育てらていく場として教会は在るのだろうと思います。ここにこそ、「聖なる公同の教会」である「見えざる教会」を目指す「見える教会」につらなるわたしたちの今という現実が支えられているのではないでしょうか。

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