テモテへの手紙二 4章1~2節 「神の審き」
「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨には、確かに「審き」があります。罪のゆえに審判が下されるのです。この審きは、完全な審きであることを否定すべきではありません。この審きからは逃れることは出来ません。来るべき日に申し開きをしなければならないことです。そして、この審きとは、世の終わりの状態になって初めて起こることではありません。わたしたちが、この世において生かされている今もまた、審かれているのです。わたしたちは、多かれ少なかれ偽りや見栄や人から良く見られたいといった欲望から自由ではありません。しかし、自分自身に対しても他者に対しても、偽らないことが求められているのです。「あなたはどこにいるのか」という問いを無視したり誤魔化したりして神から隠れようとする偽りから自由にならなければなりません。
そしてまた、主イエスの楽観性を自らのことにすることができず、いつもどこか自分のことが不安で、思い煩いや恐れから自由ではないのです。これは、国家レベルで言えば、あの国が持っている兵器が怖いからもっと巨大な兵器を持ちたい、という欲望とも無縁ではありません。核を持っていると相手の国から侵略される危険性がなくなるなどといった、核抑止論もその一つかもしれません。このような欲望に支配されている限り、すでに審かれていしまっているのが人間の現実です。
しかし、審かれるべきは審かれるべきですが、この審きは主イエスゆえに赦しに包まれてしまっていることを疑ってはなりません。世の終わりのキリスト教的理解には、使い古された言葉ですが、「赦された罪人」という言葉が当てはまります。来るべき日を前にした今、「赦された罪人」として「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ」歩むことができるのです。ですから、ハイデルベルク信仰問答52によれば、「わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望む」ことができるのです。そしてさらには「わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと、迎え入れてくださるのです。」という道筋へと招かれているのです。
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