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2023年8月

2023年8月27日 (日)

ヨハネによる福音書 14章15~17節 「共におり、内にいる」

 まず、聖霊が「共におり」というイメージですが、これは「インマヌエル=神は我々と共におられる」というクリスマスのメッセージに代表されるものです。かつて奴隷の民イスラエルを助け導いた神が民族や文化を越えて、あらゆる民の神として幼子イエスにおいて実現したのだということです。より弱く小さく貧しく虐げられているところにこそ神は「共におり」、より困難な場に強いられている人々のまことの友となり仲間となったことを事実として示されているのです。

 聖霊の働きは、わたしたち人間の側からの願望や都合の良さから判断するものではないということです。あくまでも、イエス・キリストのみが主体であることから外れてはならないのです。主イエス自らの判断において歩み寄り、語りかけ、導かれる。ここにのみ聖霊の働きがあるということです。それは、主イエスの生涯を語る福音書の物語における救いが、わたしたち現代人のもとにも「共におり」が出来事として常に開かれているという聖書からの導きを根拠にしなければならないということです。聖霊とは聖書に証言される神としてのイエス・キリスト以外ではありません。聖霊が働かれている時、わたしたちは聖書の物語へと巻き込まれてしまっているのです。この状態を「共におり」と理解すべきです。

 次に「内にいる」についてです。これは、いわゆる「内在のキリスト」というものです。わたしではないわたし、という感覚です。これはパウロの手紙に数多く表れるイメージです(たとえばガラテヤ2:20、ローマ8:11など)。注意すべきは「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。(Ⅱコリント13:4-6参照)」いう指摘です。キリストが「内にいる」点は、「共におり」も含めて自己吟味は必要なのです。

 厳しい時代の只中にあって、わたしたちには時代の風潮を含め、様々な誘惑や長いものに巻かれろ式の堕落や打算などから自由ではありません。「共におり、内にいる」聖霊である主イエスの呼びかけと歩み寄りへの応答として祈っていかねばなりません。耳を澄ませ心を澄ませば、「安心しなさい、わたしだ」の声が、きっと聞こえています。「共におり、内にいる」聖霊である主イエスは慰め主なのですから。思い煩うことなくこの道をご一緒に歩みたいと願うのです。

2023年8月20日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章1~8節「キリストに結ばれた体として」

(信徒による説教)小山 崇

 私は、1976年、父廣重、母奉子のもとに生まれ、幼少期は東京都立川市で暮らしました。幼稚園はモンテッソーリ教育の幼稚園で、クリスマスは羊役や、博士役を演じたことを覚えています。

 父母がクリスチャンのため、日本キリスト教団立川教会に通っていました。ゲームや工作、また夏季学校で宿泊をしたことなど覚えていますが、小学3年からボーイスカウトを始めたこともあり、徐々に足が遠のいていきました。

 中学2年の夏休みに横浜市港南区上永谷に引っ越しました。上大岡教会には30年以上の関わり合いとなります。高校時代以降は年に数回程度の出席でしたが、キリスト教に対する帰属意識のようなものがありました。

 大学では、週一度昼休みに礼拝があり、足を運んでいました。

 また、ボーイスカウト活動でも信仰を持つことが奨励され、ちかいの一番目が「神(仏)と国とに誠を尽くし、おきてを守ります。」二番目は「いつも他の人々を助けます」です。創始者のベーデンパウエル卿が牧師でもあり、神様が造られた自然のものに畏敬の念を持つこと、隣人愛の教えがとりいれられています。この「信仰」を確立したいと思っていました。

 社会人となり、初めは信用金庫に勤めましたが、人間関係がうまくいかず退職し、税理士試験の勉強に専念しました。2006年の夏に勉強が一区切りし、再就職した時に、もう一度教会に通ってみようという気持ちになっていました。

 教会学校、聖書研究会にも参加し、原牧師の勧めもあり、200911月受洗しました。神様がはじめから導いてくれていたと思います。

 その後も、結婚、こどもが生まれるなどありましたが、教会に出席できています。

 神様から見守られる中で、何ができるか考えます。一つは、依頼をお引き受けすることで、今年度から税理士会の役員や研修会講師をします。今回の信徒説教も、神様の招きがあると思いました。もう一つは、キリスト教を地域に認識してもらうということです。CSでは、教会に来ることが楽しんでもらえるよう心がけています。

2023年8月13日 (日)

テモテへの手紙二 4章1~2節 「神の審き」

 「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨には、確かに「審き」があります。罪のゆえに審判が下されるのです。この審きは、完全な審きであることを否定すべきではありません。この審きからは逃れることは出来ません。来るべき日に申し開きをしなければならないことです。そして、この審きとは、世の終わりの状態になって初めて起こることではありません。わたしたちが、この世において生かされている今もまた、審かれているのです。わたしたちは、多かれ少なかれ偽りや見栄や人から良く見られたいといった欲望から自由ではありません。しかし、自分自身に対しても他者に対しても、偽らないことが求められているのです。「あなたはどこにいるのか」という問いを無視したり誤魔化したりして神から隠れようとする偽りから自由にならなければなりません。

 そしてまた、主イエスの楽観性を自らのことにすることができず、いつもどこか自分のことが不安で、思い煩いや恐れから自由ではないのです。これは、国家レベルで言えば、あの国が持っている兵器が怖いからもっと巨大な兵器を持ちたい、という欲望とも無縁ではありません。核を持っていると相手の国から侵略される危険性がなくなるなどといった、核抑止論もその一つかもしれません。このような欲望に支配されている限り、すでに審かれていしまっているのが人間の現実です。

 しかし、審かれるべきは審かれるべきですが、この審きは主イエスゆえに赦しに包まれてしまっていることを疑ってはなりません。世の終わりのキリスト教的理解には、使い古された言葉ですが、「赦された罪人」という言葉が当てはまります。来るべき日を前にした今、「赦された罪人」として「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ」歩むことができるのです。ですから、ハイデルベルク信仰問答52によれば、「わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望む」ことができるのです。そしてさらには「わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと、迎え入れてくださるのです。」という道筋へと招かれているのです。

2023年8月 6日 (日)

ヨハネによる福音書 13章34節 「愛でしか乗り越えられないのか」

 主イエスは、マタイによる福音書によれば「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と語りました。キリスト者と教会の存在意義や使命がここにはあるのです。「平和を実現する」ことの基本には、主イエスの愛から始めることにあることだけを今日はお話します。

 今日の聖書で主イエスは、キリスト者に与えられている掟とは「互いに愛し合いなさい」であり、その愛について「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語りかけています。「互いに愛し合いなさい」という言葉に異を唱える人はおそらくいないだろうと思います。問題は、その「愛」の中身、またその対象であろうと思います。本田哲郎神父は「愛する」を「大切にする」と解釈しています。つまり、「愛」とは、概念や観念ではなくて、さらには実現不可能な理想的なあり方でもなくて、具体的な人間関係を水平であり平等であるという方向性を作り出すものということではないでしょうか。

 「愛」は、主イエスの生涯における他者との関係のありようとか振る舞いと言葉から理解すべきでしょう。神や人から愛されているがゆえにその「愛」に気づき、自分が愛されているように他者を愛していくことで、お互いのいのちの豊かさへと導くものであったのです。愛するということは能動的で積極的なことでした。主イエスが、より弱くより貧しくより小さくされた人々の友となり仲間となったのは、その愛のゆえに他なりません。そして主イエスは、その愛する愛のゆえに、当時の宗教的・政治的権力から憎まれ、貶められ、軽蔑され、十字架という最も汚らわしいとされた処刑を受けなければならなかったのです。主イエスは愛されることを求めたのではなく、ひたすら愛することを貫かれました。この主イエスの完全な愛からすれば、わたしたちが主イエスに倣う者であったとしても、わたしたちの愛は不完全なものに過ぎません。それでも、愛し続けていくことによって自らの立場が危うくなったり、自らの罪深さが明らかにされてしまうこともあるだろうと思います。主イエスに基づいて愛するとは水平関係を目指すものですから、この世の基準から外れてしまうことや摩擦が起こることも、周りに波風を立ててしまうこともあるでしょう。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。このように語られた主イエスは別のところで次のように語ります。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」。

 キリスト教会においては主イエスこそが神だという理解があります。これを踏まえて十戒の第一戒へと思い巡らせたいと思います。第一戒は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。主イエス・キリストの神以外に神を認めないという立場を明らかにしています。これは、バルメン宣言(ドイツ福音主義教会の現状に関する神学的宣言)の第1テーゼの拒絶の部分が、第一戒を踏まえての言葉です。「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。」

 わたしたちは、愛されることを望んでこの世に対して従順になってしまうことを拒むべきです。愛するという自律的で主体的なあり方を確立していかなければならないのです。愛する道を祈り求めていくことからこそ、平和を実現する道につらなることができるようになるのです。究極的には、国家が戦うことを求める時、それを拒むことができるだろうか、ということです。

 「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟が求めているのは、神を愛することを踏まえて隣人を愛することです。では、愛すべき隣人とはいったい誰なのか?この隣人の抱えている課題や困難とは何なのか?水平関係をどのように築き上げていくことができるのか?これらが自分たちの課題となるのだろうか?それでは一体何を祈り、何を拒み、何を受けいれつつ育むことができるのか?自分の都合を優先することで自己満足に陥ってしまっていないのか?自己吟味しつつ、しかしここから平和を実現する道につらなり、今という時代にあってキリストの証し人としての責任を果たしていきたいと願うのです。

 これはわたしたちの祈りの課題でもあります。この課題には困難が伴います。主イエスが愛することを貫かれたがゆえに十字架へと歩まざるを得なかったことからも明らかです。この点について渡辺英俊牧師の『私の信仰QA』の106に説明があります。

106 愛を妨げているものとは何ですか。

A106 人間の心の一番深くに入り込んでいる妨げは、「エゴイズム」です。わたしたちが育つ社会は、自己中心の文化に支配されていますから、生まれてからずっと、わたしたちはエゴイズムを注入され続けます。こうして、愛の出発点である他者への関心が封じ込められてしまいます。/さらに、強い者が弱い者から奪ってため込む社会の仕組みと文化の中で、他者を押しのけて上に上がっていくことに価値を置くような生き方が植え付けられて行きます。これによって、人を愛することは損になるような錯覚が、世間の常識として作られていくのです。

 この渡辺英俊牧師の指摘しているところが最もエスカレートしたあり方が戦争・侵略に他なりません。また、他者のいのちを軽んじていくあり方全般とも関わっています。この時代にあって、愛することを自己吟味しながら行い、愛することを妨げる仕組みを解きながら、祈りつつ歩み続けていくこと。ここにわたしたちは主イエスの掟に歩み、愛していくことへの道が示されているのではないでしょうか。

祈り

いのちの源である神!

この戦争と混乱の時代の只中にあって、神の平和が速やかになりますように。

人間の悲惨にあなたの憐みが満たされますように。

わがままで自分勝手、長いものに巻かれること、権力に従順であることを愛と勘違いしてしまう罪から救い出してください。

あらゆる戦争や紛争、争いごとが御旨によって正されますように。

傷つき、痛んでいる人々、苦しみや飢えにある人々を支えてください。

人間の思い上がりを審き、神の願う正しさへと導いてください。

御国が来ますように。

この祈りを、平和の主、イエス・キリストの御名によってささげます。

アーメン。

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