主イエスは、マタイによる福音書によれば「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と語りました。キリスト者と教会の存在意義や使命がここにはあるのです。「平和を実現する」ことの基本には、主イエスの愛から始めることにあることだけを今日はお話します。
今日の聖書で主イエスは、キリスト者に与えられている掟とは「互いに愛し合いなさい」であり、その愛について「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語りかけています。「互いに愛し合いなさい」という言葉に異を唱える人はおそらくいないだろうと思います。問題は、その「愛」の中身、またその対象であろうと思います。本田哲郎神父は「愛する」を「大切にする」と解釈しています。つまり、「愛」とは、概念や観念ではなくて、さらには実現不可能な理想的なあり方でもなくて、具体的な人間関係を水平であり平等であるという方向性を作り出すものということではないでしょうか。
「愛」は、主イエスの生涯における他者との関係のありようとか振る舞いと言葉から理解すべきでしょう。神や人から愛されているがゆえにその「愛」に気づき、自分が愛されているように他者を愛していくことで、お互いのいのちの豊かさへと導くものであったのです。愛するということは能動的で積極的なことでした。主イエスが、より弱くより貧しくより小さくされた人々の友となり仲間となったのは、その愛のゆえに他なりません。そして主イエスは、その愛する愛のゆえに、当時の宗教的・政治的権力から憎まれ、貶められ、軽蔑され、十字架という最も汚らわしいとされた処刑を受けなければならなかったのです。主イエスは愛されることを求めたのではなく、ひたすら愛することを貫かれました。この主イエスの完全な愛からすれば、わたしたちが主イエスに倣う者であったとしても、わたしたちの愛は不完全なものに過ぎません。それでも、愛し続けていくことによって自らの立場が危うくなったり、自らの罪深さが明らかにされてしまうこともあるだろうと思います。主イエスに基づいて愛するとは水平関係を目指すものですから、この世の基準から外れてしまうことや摩擦が起こることも、周りに波風を立ててしまうこともあるでしょう。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。このように語られた主イエスは別のところで次のように語ります。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」。
キリスト教会においては主イエスこそが神だという理解があります。これを踏まえて十戒の第一戒へと思い巡らせたいと思います。第一戒は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。主イエス・キリストの神以外に神を認めないという立場を明らかにしています。これは、バルメン宣言(ドイツ福音主義教会の現状に関する神学的宣言)の第1テーゼの拒絶の部分が、第一戒を踏まえての言葉です。「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。」
わたしたちは、愛されることを望んでこの世に対して従順になってしまうことを拒むべきです。愛するという自律的で主体的なあり方を確立していかなければならないのです。愛する道を祈り求めていくことからこそ、平和を実現する道につらなることができるようになるのです。究極的には、国家が戦うことを求める時、それを拒むことができるだろうか、ということです。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟が求めているのは、神を愛することを踏まえて隣人を愛することです。では、愛すべき隣人とはいったい誰なのか?この隣人の抱えている課題や困難とは何なのか?水平関係をどのように築き上げていくことができるのか?これらが自分たちの課題となるのだろうか?それでは一体何を祈り、何を拒み、何を受けいれつつ育むことができるのか?自分の都合を優先することで自己満足に陥ってしまっていないのか?自己吟味しつつ、しかしここから平和を実現する道につらなり、今という時代にあってキリストの証し人としての責任を果たしていきたいと願うのです。
これはわたしたちの祈りの課題でもあります。この課題には困難が伴います。主イエスが愛することを貫かれたがゆえに十字架へと歩まざるを得なかったことからも明らかです。この点について渡辺英俊牧師の『私の信仰Q&A』の106に説明があります。
Q106 愛を妨げているものとは何ですか。
A106 人間の心の一番深くに入り込んでいる妨げは、「エゴイズム」です。わたしたちが育つ社会は、自己中心の文化に支配されていますから、生まれてからずっと、わたしたちはエゴイズムを注入され続けます。こうして、愛の出発点である他者への関心が封じ込められてしまいます。/さらに、強い者が弱い者から奪ってため込む社会の仕組みと文化の中で、他者を押しのけて上に上がっていくことに価値を置くような生き方が植え付けられて行きます。これによって、人を愛することは損になるような錯覚が、世間の常識として作られていくのです。
この渡辺英俊牧師の指摘しているところが最もエスカレートしたあり方が戦争・侵略に他なりません。また、他者のいのちを軽んじていくあり方全般とも関わっています。この時代にあって、愛することを自己吟味しながら行い、愛することを妨げる仕組みを解きながら、祈りつつ歩み続けていくこと。ここにわたしたちは主イエスの掟に歩み、愛していくことへの道が示されているのではないでしょうか。
祈り
いのちの源である神!
この戦争と混乱の時代の只中にあって、神の平和が速やかになりますように。
人間の悲惨にあなたの憐みが満たされますように。
わがままで自分勝手、長いものに巻かれること、権力に従順であることを愛と勘違いしてしまう罪から救い出してください。
あらゆる戦争や紛争、争いごとが御旨によって正されますように。
傷つき、痛んでいる人々、苦しみや飢えにある人々を支えてください。
人間の思い上がりを審き、神の願う正しさへと導いてください。
御国が来ますように。
この祈りを、平和の主、イエス・キリストの御名によってささげます。
アーメン。
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