使徒言行録 1章6~11節 「天にのぼり、神の右に」
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と、弟子たちは、どこからか現れた二人の人からの声によって現実へと引き戻されます。天を見上げてばかりいるのは違うのだという指摘です。いつの日なのかは述べられないのですが、やがて主イエスが来臨するという約束があるのです。その来臨に至るまでの間、天を見上げて心を天の国に向けるだけではなくて、今から前を向いて歩きだせという促しとも聴き取れます。主イエスは天に上げられる時に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と弟子たちに語りました。ここで言われているのは、主イエスが天に上げられるのは、あなたがたを見捨てるのではないのだということです。そしてまた、弟子たちが「証人」として生きるための「聖霊」が働くのだという約束が語られてもいるのです。
主イエスが天に上げられたことに伴う「なぜ天を見上げて立っているのか。」という言葉は、この世における堅実で着実で責任的なキリストの証し人として歩み出せという呼びかけです。復活後40日の間は、共に過ごした弟子たちだけが復活者の恵みに与っていましたが、今や主イエスが天に上げられたことによって、復活の主イエスの働かれる領域が限りなく広がっていく恵みとなったのだ、という表現でもあります。
天に上った主イエスは、「神の右に座したまえり」と使徒信条にあります。この「座したまえり」とは、じっとして動かず、働かないということではありません。「神の右」とは固定された「場所」ではなく、神の権能を全面的に譲り受けているということです。変幻自在に、神としての自由さによって、人間に寄り添い共にいる力を受けているということの表現です。
生前の主イエスがガリラヤ湖周辺からエルサレムに、そして十字架へと至る道行きにおいて、より小さくされた人たちや弱くされた人たちに寄り添い、共に生きたところの神の国のしるしは、天に上げられることによって限りない広がりへと展開したということです。
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