ペトロの手紙一 3章18~19節 「よみにくだり」
「よみにくだり」の「よみ」とは、当時の世界観の一つの表現です。ハイデルベルク信仰問答44によれば、「御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れ」であり、その「よみ」に下った主イエスだからこそ「わたしが最も激しい試みの時」に歩みよって「地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ」というのです。インマヌエル、我々と共にいることの貫きが、「地獄のような不安と痛み」を共に担っていてくださるのだという信仰的確信が主イエスにおいてなっているのです。
そしてこのことは、わたしという個人が解放されていることに留まりません。洗礼を受けた自分たちは救われた光の子だけれども、外にいるあの人たちは闇の世界から自由になれない滅びの子だ、みたいな主イエスの恵みを独り占めするような閉じられたものではありません。確かにそのような信仰理解も存在しますが、主イエスの「よみにくだり」という象徴的な言葉には、あの人この人という他者への広がりがあるのです。
「よみ」とは、個人においても他者との関係性においても、うごめき続ける悪しきものであり、虚無であり、絶望であり、孤独であり、地獄を思わせる世界であり力なのかもしれません。人間一人ひとりとそのあらゆる関係を歪め、憎しみや妬みなどによって「幸い」でないことへと誘う何かなのだと思います。今日の「よみにくだり」が示すのは、使徒信条の前の部分「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」た主イエスが、苦しみの道の先にある十字架の死を経てなお「よみ」という深みにまでおりてわたしたちに寄り添うことを貫き通した方だということです。ここから帰ること、つまり「よみがえり」によって絶えず新しい関係を打ち立ててくださるのです。だから、わたしたちは主イエスの「幸い」に与ることによって罪あるままで救われる、つまり全面的に、そして無条件に受け入れられると同時に「わたしたち」という広がりへと招かれることによって、何度でも初めから生き直し、やり直すことができるのです。「よみにくだり」の主イエスは今日もわたしたちの「よみ」を自ら引き受けてくださっているのです。
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