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2023年7月 9日 (日)

ヨハネによる福音書 19章31~42節 「十字架の死」

 十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。これについて渡辺英俊は『私の信仰Q&A キリスト教ってなんだ?』という著書で述べています。

Q34 イエスは、なぜ十字架にかけられたのですか。

A34 当時のユダヤは、ローマ帝国軍の支配下にありました。政治・経済的には、神殿を頂点とする祭司貴族が、地主貴族、律法学者たちと結んで権力を握っていました。人びとはローマからと神殿からの二重の収奪を受けていました。しかし、神殿を中心とする宗教文化に心を支配され、「罪人・徴税人・売春婦」と呼ばれるアウトカースト階層に対する差別意識を強く植え込まれていました。イエスがこれに抗議して、差別されている「貧しい人々」こそ「神の国」の主人公だと告げ、差別を越える運動を展開しました。これはユダヤ教的秩序、ひいてはローマ支配の秩序に対する反抗とみなされました。

 イエスは、最後の抗議行動として、神殿にデモをかけ、神殿を商売の場にしていた者たちのテーブルをひっくり返す実力行使を行いました(マルコ11:15-19)。これが直接のきっかけとなって逮捕され、政治反乱者に対する見せしめの処刑であった十字架に処せられたのです。

 主イエスの十字架上での死の出来事から埋葬の記事がわたしたちに語るのは、主イエスの死をしっかりと見つめよ、ということです。その上で主イエスの生前の生涯を思い起こすのです。わたしたちが死ぬべき存在である事実を踏まえながら、イエスの死から、今のわたしたちのいのちが支えられていることを思い起こすのです。神である主イエスが、すでに人間の死を死んでくださったのです。しかも呪いの死をです。無残な十字架によって権力によって虐殺された事実。この十字架を確かに呪いの事実としてわたしたちは確認しなくてはありません。

 しかし、信仰の眼差しからすれば、呪いに留まるものではありません。呪いを遥かに超え、突き抜けたところにある、かつて生前の主イエスが人々の間にあって実現したところの無条件にそして全面的にもたらされる祝福へと展開させる出来事として十字架は立ち続けるのです。差別され、抑圧され、今生きていることに喜びが見いだされないところに祝福をもたらす生き方をしたために政治犯として殺された主イエスを、しっかりと見届けなければならないのです。この十字架を仰ぐ信仰に立ち続け、呪いを自ら引き受けてくださった主イエスの恵みと祝福に感謝しつつ、ご一緒に証しの生涯を歩みたいと願います。呪いから祝福へと転じる十字架は、同時に絶望から希望へと転じる力ある出来事なのだとの信仰に立ち続けたいのです。

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