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2023年7月

2023年7月30日 (日)

使徒言行録 1章6~11節 「天にのぼり、神の右に」

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と、弟子たちは、どこからか現れた二人の人からの声によって現実へと引き戻されます。天を見上げてばかりいるのは違うのだという指摘です。いつの日なのかは述べられないのですが、やがて主イエスが来臨するという約束があるのです。その来臨に至るまでの間、天を見上げて心を天の国に向けるだけではなくて、今から前を向いて歩きだせという促しとも聴き取れます。主イエスは天に上げられる時に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と弟子たちに語りました。ここで言われているのは、主イエスが天に上げられるのは、あなたがたを見捨てるのではないのだということです。そしてまた、弟子たちが「証人」として生きるための「聖霊」が働くのだという約束が語られてもいるのです。

 主イエスが天に上げられたことに伴う「なぜ天を見上げて立っているのか。」という言葉は、この世における堅実で着実で責任的なキリストの証し人として歩み出せという呼びかけです。復活後40日の間は、共に過ごした弟子たちだけが復活者の恵みに与っていましたが、今や主イエスが天に上げられたことによって、復活の主イエスの働かれる領域が限りなく広がっていく恵みとなったのだ、という表現でもあります。

 天に上った主イエスは、「神の右に座したまえり」と使徒信条にあります。この「座したまえり」とは、じっとして動かず、働かないということではありません。「神の右」とは固定された「場所」ではなく、神の権能を全面的に譲り受けているということです。変幻自在に、神としての自由さによって、人間に寄り添い共にいる力を受けているということの表現です。

 生前の主イエスがガリラヤ湖周辺からエルサレムに、そして十字架へと至る道行きにおいて、より小さくされた人たちや弱くされた人たちに寄り添い、共に生きたところの神の国のしるしは、天に上げられることによって限りない広がりへと展開したということです。

2023年7月23日 (日)

ルカによる福音書 24章36~43節 「よみがえり」

 「ここに何か食べ物があるか」と語り、差し出された焼いた魚をむしゃむしゃと食べた主イエスの姿を思うと、主イエス一流のユーモアを感じてしまいます。焼いた魚を具体的に食べるところを見せることによって、食事を共にする姿勢を貫かれた生前の主イエスの生き方全般が象徴的に表されているように思えるのです。同じ地平、同じ場で共に生きるとは、「一緒に食べること」と決して無縁ではないからです。主イエスの、より弱く貧しく痛めつけられている人たちと共に生きる、一貫したその生き方を思い起こさせるに十分なパフォーマンスとして、焼いた魚を食べているかのようです。むしゃむしゃと魚にかぶりつく姿でもって、復活したいのちをもって、わたしはここにいるよ、と訴えかけているのではないでしょうか。人びとの強いられた低み、差別されている場で一緒に食べるという生前の一貫した生き方を、復活の姿において全面的に肯定しているということです。かつての主イエスの生き方が神によって認められる仕方で、死に打ち勝たれたのだと。このようにして、わたしはここにいる、そしてわたしにつらなり一緒に食べていこうという促しとしても読めるのです。

 日本語の感覚では、「食べる」という言葉には生活全般の意味をも含まれた使われ方があります。たとえば、「どんな仕事をしているか」を「○○で食べている」と表現するように、どのように食べていくのかとは、どのように生きるのかと意味は変わらないのです。同じように、今日の聖書で焼いた魚を復活の主イエスが見せているのは、身体の復活を証明すると同時に、かつての生き方を思い起こさせ、一緒に食べる方向に向かって歩み直そうじゃないかという呼びかけとしても読むことができるのではないでしょうか。

 この世において、わたしたちは復活の主イエスの励ましのもとで証しの道へと立てられています。この世の価値観や風潮に溺れてしまうこともあるかもしれません。復活の主イエスをキリストと信じることは、ただ単に精神的内面的な事柄に閉じられたものではありません。焼いた魚を食べる主イエスの生前の姿をなぞるものでもあります。イエスに倣う生き方への招きがあるからです。この点について、復活の主イエスに与りながら生きることは、恵みのもとでの決断が強いられることもあるでしょう。信仰が立つか倒れるかの瀬戸際に立たされることもあるのかもしれません。しかし、そのような危うさを抱えつつも、焼いた魚にかぶりつく復活の主イエスの朗らかさやユーモアに支えられながら、この世を旅する群れとして証しの道をご一緒に歩みたいと願います。

2023年7月16日 (日)

ペトロの手紙一 3章18~19節 「よみにくだり」

 「よみにくだり」の「よみ」とは、当時の世界観の一つの表現です。ハイデルベルク信仰問答44によれば、「御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れ」であり、その「よみ」に下った主イエスだからこそ「わたしが最も激しい試みの時」に歩みよって「地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ」というのです。インマヌエル、我々と共にいることの貫きが、「地獄のような不安と痛み」を共に担っていてくださるのだという信仰的確信が主イエスにおいてなっているのです。

 そしてこのことは、わたしという個人が解放されていることに留まりません。洗礼を受けた自分たちは救われた光の子だけれども、外にいるあの人たちは闇の世界から自由になれない滅びの子だ、みたいな主イエスの恵みを独り占めするような閉じられたものではありません。確かにそのような信仰理解も存在しますが、主イエスの「よみにくだり」という象徴的な言葉には、あの人この人という他者への広がりがあるのです。

 「よみ」とは、個人においても他者との関係性においても、うごめき続ける悪しきものであり、虚無であり、絶望であり、孤独であり、地獄を思わせる世界であり力なのかもしれません。人間一人ひとりとそのあらゆる関係を歪め、憎しみや妬みなどによって「幸い」でないことへと誘う何かなのだと思います。今日の「よみにくだり」が示すのは、使徒信条の前の部分「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」た主イエスが、苦しみの道の先にある十字架の死を経てなお「よみ」という深みにまでおりてわたしたちに寄り添うことを貫き通した方だということです。ここから帰ること、つまり「よみがえり」によって絶えず新しい関係を打ち立ててくださるのです。だから、わたしたちは主イエスの「幸い」に与ることによって罪あるままで救われる、つまり全面的に、そして無条件に受け入れられると同時に「わたしたち」という広がりへと招かれることによって、何度でも初めから生き直し、やり直すことができるのです。「よみにくだり」の主イエスは今日もわたしたちの「よみ」を自ら引き受けてくださっているのです。

2023年7月 9日 (日)

ヨハネによる福音書 19章31~42節 「十字架の死」

 十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。これについて渡辺英俊は『私の信仰Q&A キリスト教ってなんだ?』という著書で述べています。

Q34 イエスは、なぜ十字架にかけられたのですか。

A34 当時のユダヤは、ローマ帝国軍の支配下にありました。政治・経済的には、神殿を頂点とする祭司貴族が、地主貴族、律法学者たちと結んで権力を握っていました。人びとはローマからと神殿からの二重の収奪を受けていました。しかし、神殿を中心とする宗教文化に心を支配され、「罪人・徴税人・売春婦」と呼ばれるアウトカースト階層に対する差別意識を強く植え込まれていました。イエスがこれに抗議して、差別されている「貧しい人々」こそ「神の国」の主人公だと告げ、差別を越える運動を展開しました。これはユダヤ教的秩序、ひいてはローマ支配の秩序に対する反抗とみなされました。

 イエスは、最後の抗議行動として、神殿にデモをかけ、神殿を商売の場にしていた者たちのテーブルをひっくり返す実力行使を行いました(マルコ11:15-19)。これが直接のきっかけとなって逮捕され、政治反乱者に対する見せしめの処刑であった十字架に処せられたのです。

 主イエスの十字架上での死の出来事から埋葬の記事がわたしたちに語るのは、主イエスの死をしっかりと見つめよ、ということです。その上で主イエスの生前の生涯を思い起こすのです。わたしたちが死ぬべき存在である事実を踏まえながら、イエスの死から、今のわたしたちのいのちが支えられていることを思い起こすのです。神である主イエスが、すでに人間の死を死んでくださったのです。しかも呪いの死をです。無残な十字架によって権力によって虐殺された事実。この十字架を確かに呪いの事実としてわたしたちは確認しなくてはありません。

 しかし、信仰の眼差しからすれば、呪いに留まるものではありません。呪いを遥かに超え、突き抜けたところにある、かつて生前の主イエスが人々の間にあって実現したところの無条件にそして全面的にもたらされる祝福へと展開させる出来事として十字架は立ち続けるのです。差別され、抑圧され、今生きていることに喜びが見いだされないところに祝福をもたらす生き方をしたために政治犯として殺された主イエスを、しっかりと見届けなければならないのです。この十字架を仰ぐ信仰に立ち続け、呪いを自ら引き受けてくださった主イエスの恵みと祝福に感謝しつつ、ご一緒に証しの生涯を歩みたいと願います。呪いから祝福へと転じる十字架は、同時に絶望から希望へと転じる力ある出来事なのだとの信仰に立ち続けたいのです。

2023年7月 2日 (日)

マルコによる福音書 15章6~15節 「十字架の苦しみ」

 主イエスは、一切の苦しみや痛みをその身に負い、身代わりとして国家権力の暴力による仕打ちへと引き渡されています。主イエスの味わっているのは全世界のあらゆる苦しみや痛みではないでしょうか。この姿が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一言に表され、この姿に対して全面的に同意し「アーメン」と告白するところに、すでに教会は建て上げられています。そして、そこにつらなることによって主イエスの苦しみによって守られていることをお互いに確認することが赦されているのです。主イエスの苦しみの場から神の国への道筋は開けてくるのです。教会は主イエスの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という事実によって支えられている共同体です。実線として閉じられた枠や必ずしも組織として整えられているものとは限りません。

 現代も、世界中のありとあらゆる場所に、形を変え名前を変え、偽りの神の国を語るところの様々なポンテオ・ピラトは存在します。世界中の国家権力の暴力性は神の国に押し入ろうとしています。この人間の野望はバベルの塔を想像させるものでもあります。人間の万能感が権力の暴力性によって満たされる途上において、この世の帝国を神の国と偽るのです。神の国とは本来、神ご自身の願いに満ちた場であり、時間です。そこではあらゆるいのちが神の祝福に包まれており、愛という現実が満ち溢れている場です。ここに向かって国家権力の暴力性が忍び寄ります。あちらこちらに存在するポンテオ・ピラトのもとで収奪や搾取、様々な国家権力という暴力にさらされている場に対して、主イエスが冷たい態度をとるはずはありません。その場に共にいたいと願うのが、わたしたちが主イエス・キリストと心を込めて告白するその方なのです。教会はあくまで、ポンテオ・ピラトの側に立つことを拒むところでなければなりません。現代のポンテオ・ピラトを注意深く拒むことは、同時に神の国・神の支配である主イエスの思いに寄り添う生き方を選び取ることでもあります。

 この生き方は「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉によって招かれていくものです。また、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。この言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」がその苦しみを強いられているところに向かうのです。そしてその場で、その時々のポンテオ・ピラトによる構造悪としての国家権力の暴力に抗うことが求められているのではないでしょうか。その抵抗は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」た主イエスによって支えられていることを信じ、神の国を共に目指したいと願います。

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