ヨハネによる福音書 3章16節 「ひとり子」
「独り子」をささげることについて、フィリピの信徒への手紙2章6節以下で語られています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。この主イエスをささげる神のあり方は人を救う愛の業です。人には根源的な罪があり、赦されることのないほど深くて闇に満ちたものであるのだとして、です。人は自分の力では自らの丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に肯定することなどできないような存在なのです。
主イエスを十字架に磔ることによってなされた出来事は、一度限り根源的な罪の赦しとして生贄として献げられたことを意味します。神ご自身が、息子イサクを捧げようとしたあのアブラハムの厳しさや重苦しさ、苦痛などを遥かに超えた痛みを担われたのです。この神のあり方の塊を愛と呼ぶのです。人の理解の及ぶことのできないほどのものです。「お与えになったほどに」と言い表されるところの愛です。ここでの「与える」とは、引き渡して好きにさせるという意味合いを読み取ることができそうです。主イエスという「独り子」をこの世の権力の総体の象徴としての十字架へと追いやるままにさせたということです。これによって神の痛みと悲しみとをもって人を愛しつくす、大切に慈しむのです。
主イエスが神の「独り子」であること、またその十字架の処刑から復活の出来事のゆえに、わたしたちもまた主イエスによって神の子とされる道筋につらなる幸いに導かれているのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という宣言によって示されているのは、十字架と復活の出来事によって、わたしたちも神の子として受け入れられているということです。神の愛に基づいて歩むことができるということです。この事実に立つことが赦されているがゆえに、主イエスがなさった数々の愛の業に照らし出された生き方へと招かれているに違いないのです。
主イエス・キリストによって愛されていることを聖書は証言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」この愛こそに本当があると、わたしは信じます。聖書を読むときに主イエスの数々の恵みある出会いに巻き込まれてしまっている事実を感謝をもって受け入れる信仰にしか可能性がないと信じるからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ことによって、我儘さや冷酷さや残酷さなど非道な自分がその愛によって暴かれていくからなのかもしれません。その愛に包まれてしまっているとしか言いようがないのです。「世を愛された」その愛によって、今日もまた恵まれ赦されている事実を拠り所にしながら主イエスの道を歩み続けていくことを求めましょう。
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