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2023年6月

2023年6月25日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 4章1~7節 「神の子とされる」

 パウロは、今日の聖書の4節から5節で次のように語ります。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」。主イエスが「真実の」「本当の」人間として生まれてくださったことから、本来神から子と呼ばれることなどあるはずのないわたしたちが「神の子」とされる道を切り開いてくださったのだという慰めを語っているのです。

 そしてこの言葉はパウロによれば「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」というテーマの展開です。「受肉」した主イエスにとって、神は天の上はるか彼方、遠いところにいますとは考えられなかったのです。あの十字架直前のゲッセマネの祈りの言葉を思い起こすならば、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、主イエスは、すぐ傍にいるところの神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ、祈るのです。「アッバ」とは、当時使われていたアラム語のくだけた表現で「父」を表す言葉です。このゲッセマネの園において神は沈黙を続けるのですが、主イエスはすぐ傍にいる神の存在を疑うことなく呼びかけ祈っているのです。

 この主イエスが「聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」であることから、今日の5節以下の「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」このこと、さらにはローマの信徒への手紙815節へと導かれるのです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」

 主イエスのみが「聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」たからこそ、わたしたちも神に向かって「アッバ」と呼びかけることのできる神の子として招かれているのです。三位一体における神によって、いわば確実な養子縁組によって本当の神の子と呼ばれるわたしたちとされているのです。この主イエスによって、しかも「聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」であるからこそ、自らの「身」をもって身代金としてささげられる、贖い出すことができるのです。このようにしてわたしたちは買い戻される仕方で神の子とされているのです。

2023年6月18日 (日)

テモテへの手紙一 2章4~5節 「神と人との間の仲介者」

 今日の聖書はわたしたちの願いを、人間を根拠としたものではなくて、まず神ご自身の願いと望みに立ち返るところから、最初から受け止め直し、考え直してみることが求められていることを呼びかけているのではないでしょうか。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ316)現実に立ち返り、ここからのみ発想していくという方向においてです。神は「真理を知るようになることを望んでおられます」とありますが、この「真理」とは、論理が理屈に適っているとか形式的な客観的な知識の正しさやなど机の上で考えぬかれるものとは決定的に違います。「真理」についてヨハネによる福音書14章6節は示しています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 。「真理」とは、イエス・キリストご自身のことに他なりません。この真理を知るようになることを神は望んでおられるということです。

 「わたしたちは一人ではありません。」から始まるカナダ合同教会の信仰告白は、イエス・キリストのゆえに孤独から解き放たれているということです。クリスマスという神が人となった事実において、逃れられない人間の悲惨さに神が寄り添い、友となるために歩み寄り出会いを求めておられるということです。そして主イエスの聖霊において共におられることによる恵みに包まれているのだということです。

 イエス・キリストが人間の悲惨な孤独の現実に対して「神と人との間の仲介者」であることを受け入れることから始めてみようじゃないかという呼びかけが今日の聖書の告げるところです。ここに軸足を据えて立つところにキリスト者としてのあり方が備えられているのだと確認できるはずです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」。ここに希望が、つまり、人間の願いや希望が破れている現実を見据えながらも新しく主イエスの側から備えられる願いや希望による「ほんとう」に向かって歩み出す赦しが語られているのです。

 この言葉に示されている「ほんとう」が揺らぐことはありません。人間の側からの望みが押しつぶされ破壊されている時代であるからこそ、おひとりの主イエス・キリストからのみに示される望みがあるのです。

2023年6月11日 (日)

マルコによる福音書 2章1~12節 「ともだちっていいな」

 ~花の日・子どもの日 子どもとおとなの合同礼拝~

 主イエスは体が動かない人を治して元気にしました。その時の主イエスの気持ちが何だったのかと思いました。それはきっと、「友達っていいな」だったと。確かに、四人の人たちが家の屋根を壊してしまうのは、乱暴なことかもしれませんが、友達を何とかしてあげたい、助けたい、そういう気持ちは分かるし好きだなあ、友達を思う気持ちって大切なことなんだ、と。

 体が動かない人のことを何とかしてあげたいと思う四人の友達の心は、神を信じる気持ちにつながる信仰だと主イエスは考えたのでしょう。こういう気持ちこそがとても大切なんだ、と。主イエスは、四人の友達の信仰に応えて体が動けるようにして元気にしたのです。それは、治された人も運んできた四人の友達にとっても嬉しいことでした。そして、それだけではありません。その体が動かない人を思う友達の気持ちが、その家の中にいる人たちにも伝染し、さらにはその気持ちがもっと多くの人たちにどんどん広がっていったのではないかと思うのです。家の外にも、それが町全体そして国全体、世界全体に広がっていくことを想像するとなんだか嬉しくなってきます。つらい思いをしている人に心を寄せる人たちが、広がっていったらきっと素敵な世界になっていきます。そこにいた人たちの心の広がりを、「このようなことは見たことがないと言って神を賛美した」と今日の聖書に書いてある言葉は、そういうことだと思います。

 実は今日の話の本当の始まりは、神が人間と心が通じ合う本当の友達になるために、この世界に主イエスとしてやってきたという出来事です。誰もが、つらい思いや悲しい思いをしている人の友達になっていくことができるし、このことを主イエスは大好きなのです。もしかしたら、自分には友達なんて一人もいないと思う人がいるかもしれません。でも大丈夫です。主イエスはいつだってあなたと友達になりたいし、もうすでに友達になってくれていることを思い出せばいいのです。そして主イエスの力によって友達の輪が広がっていくよと今日の聖書は約束しているのではないでしょうか。この友達の広がりが世界中に広がっていけば、主イエスの願っている平和な世界がやって来ることを信じることができるようになるのです。紛争や戦争の中にある国々のところにも、友達っていいな、という主イエスの願いと同じ心が広がっていってほしいと、たくさんのたくさんの人が思いつづけたら、きっとそれは本当になります。

2023年6月 4日 (日)

ヨハネによる福音書 3章16節 「ひとり子」

 「独り子」をささげることについて、フィリピの信徒への手紙2章6節以下で語られています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。この主イエスをささげる神のあり方は人を救う愛の業です。人には根源的な罪があり、赦されることのないほど深くて闇に満ちたものであるのだとして、です。人は自分の力では自らの丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に肯定することなどできないような存在なのです。

 主イエスを十字架に磔ることによってなされた出来事は、一度限り根源的な罪の赦しとして生贄として献げられたことを意味します。神ご自身が、息子イサクを捧げようとしたあのアブラハムの厳しさや重苦しさ、苦痛などを遥かに超えた痛みを担われたのです。この神のあり方の塊を愛と呼ぶのです。人の理解の及ぶことのできないほどのものです。「お与えになったほどに」と言い表されるところの愛です。ここでの「与える」とは、引き渡して好きにさせるという意味合いを読み取ることができそうです。主イエスという「独り子」をこの世の権力の総体の象徴としての十字架へと追いやるままにさせたということです。これによって神の痛みと悲しみとをもって人を愛しつくす、大切に慈しむのです。

 主イエスが神の「独り子」であること、またその十字架の処刑から復活の出来事のゆえに、わたしたちもまた主イエスによって神の子とされる道筋につらなる幸いに導かれているのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という宣言によって示されているのは、十字架と復活の出来事によって、わたしたちも神の子として受け入れられているということです。神の愛に基づいて歩むことができるということです。この事実に立つことが赦されているがゆえに、主イエスがなさった数々の愛の業に照らし出された生き方へと招かれているに違いないのです。

 主イエス・キリストによって愛されていることを聖書は証言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」この愛こそに本当があると、わたしは信じます。聖書を読むときに主イエスの数々の恵みある出会いに巻き込まれてしまっている事実を感謝をもって受け入れる信仰にしか可能性がないと信じるからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ことによって、我儘さや冷酷さや残酷さなど非道な自分がその愛によって暴かれていくからなのかもしれません。その愛に包まれてしまっているとしか言いようがないのです。「世を愛された」その愛によって、今日もまた恵まれ赦されている事実を拠り所にしながら主イエスの道を歩み続けていくことを求めましょう。

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