使徒言行録 2章14~21節 「聖霊の注ぎ」
聖霊降臨の出来事は、悪酔いによるのではないのだとペトロは語ります。預言者ヨエルによってなされた言葉の実現なのだと説明し、解釈を加えているのです。ヨエル書は、イナゴの大群に襲われ、農作物をボロボロにされて、その上周囲の外国に戦争で叩きのめされて、絶望の淵にあったイスラエルの人たちを励ます預言を語ったヨエルの言葉を記録したものです。
ヨエルは「すべての人にわたしの霊を注ぎ込む」との意志が神にはあると言うのです。このことを「すべての人が預言するようになる」と語ります。いわば、預言の使命の民主化が起こるというのです。特別な誰かではなく、誰しもが神から与えられる霊によって生きる道が備えられているとの宣言として読むことができるように思います。そして、その具体化が「若者は幻を見、老人は夢を見る」という言葉にあるのではないでしょうか。この「幻」や「夢」という言葉は、やがて消え去る虚しい幻想や実現不可能な事柄と読むべきではありません。将来に向かう具体的な展望や計画が神によって備えられていることへの信仰によって支えられている事態への眼差しがあるのです。
将来を担うべき若者たちには明確な展望を抱くことへの約束があるということでしょう。若者たちが、これからの世界のありように対して具体的に関わっていくことへの希望があるということです。また、「老人は夢を見る」ところの老人は、これまで経験してきた経験や知恵をもとにして、自分たちの世代では導くことのできなかったことを無念に思ったり、残念に感じたりして希望を失い、絶望に陥ることであってはなりません。今まで自分たちが考えてきたことや経験をバトンのようにして手渡していこうとする、これを批判的に受け継いでくれる後の世代への期待に満ちた立場の表明です。
そして、聖霊降臨において起こっていることをペトロは、世の終わりが今ここで始まっているのだというのです。世の終わりは、聖霊の注ぎとして始まっていることが、ペンテコステ・聖霊降臨において知らされます。エルサレムから始まって、教会が地中海沿岸世界からローマ帝国全体に広がっていく中で、長い時間をかけて完成すると言いたいのでしょう。世の終わりが始まったことがペンテコステの出来事なのです。年齢や性のあり方や富んでいるのか貧しいのか、あるいは体が丈夫であるのかないのかなど、人間が上下関係や優劣をつける基準そのものを無化していく方向性をもつのです。ペンテコステから始まって徐々に広がってゆく、穏やかな方向なのだと受け止め直すことができるのではないでしょうか。世の終わりが完成に向かうとすれば、それは希望となるのではないでしょうか。聖霊の注ぎとしてのペンテコステの力は、今も働かれる主イエス・キリストの神にあります。そこからやって来る支えと導きの力に対して応答していきたいと願います。わたしたち一人ひとりを聖霊の注ぎにおいて用いてくださるに違いないのです。
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