« 2023年4月 | トップページ | 2023年6月 »

2023年5月

2023年5月28日 (日)

使徒言行録 2章14~21節 「聖霊の注ぎ」

 聖霊降臨の出来事は、悪酔いによるのではないのだとペトロは語ります。預言者ヨエルによってなされた言葉の実現なのだと説明し、解釈を加えているのです。ヨエル書は、イナゴの大群に襲われ、農作物をボロボロにされて、その上周囲の外国に戦争で叩きのめされて、絶望の淵にあったイスラエルの人たちを励ます預言を語ったヨエルの言葉を記録したものです。

 ヨエルは「すべての人にわたしの霊を注ぎ込む」との意志が神にはあると言うのです。このことを「すべての人が預言するようになる」と語ります。いわば、預言の使命の民主化が起こるというのです。特別な誰かではなく、誰しもが神から与えられる霊によって生きる道が備えられているとの宣言として読むことができるように思います。そして、その具体化が「若者は幻を見、老人は夢を見る」という言葉にあるのではないでしょうか。この「幻」や「夢」という言葉は、やがて消え去る虚しい幻想や実現不可能な事柄と読むべきではありません。将来に向かう具体的な展望や計画が神によって備えられていることへの信仰によって支えられている事態への眼差しがあるのです。

 将来を担うべき若者たちには明確な展望を抱くことへの約束があるということでしょう。若者たちが、これからの世界のありように対して具体的に関わっていくことへの希望があるということです。また、「老人は夢を見る」ところの老人は、これまで経験してきた経験や知恵をもとにして、自分たちの世代では導くことのできなかったことを無念に思ったり、残念に感じたりして希望を失い、絶望に陥ることであってはなりません。今まで自分たちが考えてきたことや経験をバトンのようにして手渡していこうとする、これを批判的に受け継いでくれる後の世代への期待に満ちた立場の表明です。

 そして、聖霊降臨において起こっていることをペトロは、世の終わりが今ここで始まっているのだというのです。世の終わりは、聖霊の注ぎとして始まっていることが、ペンテコステ・聖霊降臨において知らされます。エルサレムから始まって、教会が地中海沿岸世界からローマ帝国全体に広がっていく中で、長い時間をかけて完成すると言いたいのでしょう。世の終わりが始まったことがペンテコステの出来事なのです。年齢や性のあり方や富んでいるのか貧しいのか、あるいは体が丈夫であるのかないのかなど、人間が上下関係や優劣をつける基準そのものを無化していく方向性をもつのです。ペンテコステから始まって徐々に広がってゆく、穏やかな方向なのだと受け止め直すことができるのではないでしょうか。世の終わりが完成に向かうとすれば、それは希望となるのではないでしょうか。聖霊の注ぎとしてのペンテコステの力は、今も働かれる主イエス・キリストの神にあります。そこからやって来る支えと導きの力に対して応答していきたいと願います。わたしたち一人ひとりを聖霊の注ぎにおいて用いてくださるに違いないのです。

 

2023年5月14日 (日)

ヨハネによる福音書 20章24~29節 「わたしの神」

 復活の主イエスが現れた場にいなかったトマスは、主の復活を信じませんでした。主イエスが十字架上で殺されたという出来事に打ちのめされたままのトマスには、復活の主との出会いを喜んでいる他の弟子たちへの怒りや妬み、取り残されてしまったような気持ちなどを含んだ複雑な感情が蠢いていたのではないでしょうか。

 その8日後、1週間後に今度はトマスもいるところに同じようにして復活の主イエスは現れたのです。「あなたがたに平和があるように」との挨拶の言葉を語りかけながらです。そしてトマスに語りかけます「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。ヨハネによる福音書では、復活の主イエスは傷だらけのままであったと解釈されています。十字架にくぎ付けられた手のひら、そしてわき腹を示されたのです。その時、トマスの心の中に荒れ狂っていた様々な感情が静かにおさまり、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白の言葉が導き出されたのです。復活の主イエスの前にあって自分が何者であるのか?これが、頭で分かるというよりも腹で分かる、いわゆる腑に落ちる、という出来事が起こったのだとしか言いようがありません。復活の主イエスの傷だらけの姿をもって示されているのは、傷から流れ出た「血と水」に象徴されるいのちがトマスにも注がれているのだということです。

 本田哲郎神父はトマスの愛称「ディディモ」を「そっくりさん」と訳していますが、ここから、わたしたちはトマスの「そっくりさん」であると読めます。「疑い深い」「不信仰」のトマスと呼ばれる登場人物は、わたしであり、あなたであり、疑いや信仰の揺らぎの只中にある人々のことでもあるのです。ですからトマスと共に、トマスのように「わたしの主、わたしの神よ」と復活の主イエスに向かって告白することが赦されているのです。 実際には、わたしたちは肉眼で主イエスの姿を観察し、そして確認することはできません。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、トマスがその後おそらく変えられていったように、新しく生き直して信じる者となりなさいということを示します。この復活の主イエスから示される方向転換に向かって「見ないのに信じる人は、幸いである」という生き方が、わたしたちに備えられていることを受け入れる聖霊の働きを求めたいと思います。主イエスの示された手とわき腹を思う時、そこから流された「血と水」に強く象徴される聖霊の注ぎが、トマスに、そしてわたしたちに向けられているのです。そして、わたしたちが「信じる」ということは、この主イエスからの力に与っていることに応えていく道を歩むことなのです。

2023年5月 7日 (日)

創世記 1章31節 「未来の子どもの家のために」

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」ここから神の思いは、混乱や混沌から秩序に向かって呼びかける創造の言葉だと知らされるのです。「良い」という言葉には「美しい」という意味があると言われます。神の言葉による創造の業の結果は美しいのだというのです。

 しかし、「この世界の一体どこが美しいというのだ?」そう考えるのが現実に暮らしいている人の正直な実感であろうと思います。身近なところから世界規模に至るまで、「美しくない」現実を突きつけられる毎日です。この国の社会の細かなところから、紛争や搾取の絶えない広い世界も腐りきって、破滅寸前だと感じることも少なくないでしょう。

 しかし、だからこそ「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」との言葉を、今のこととして受け止めたいと願うのです。この言葉に込められている「本当」に触れたいとも願うのです。自由のない窮屈な社会の中で、人間らしさが失われつつある今だからこそです。わたしたち自身をも含めた世界は「良い」ものであり、「美しい」という神の言葉に絶えず立ち返って神の言葉に与りたいと切に願います。混乱や混沌の力、あるいは虚無という勢力や様々な悪に取り囲まれているのが、実際のこの世界です。この世の流れは、より混沌と混乱と虚無へと誘うことをやめないかもしれません。だからこそ、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」との言葉の「本当」に与かり、そこに固く立ち、そこから歩み出す者とされたいのです。

 世界の一人ひとりすべてが、神の慈しむ作品なのだとの信仰に立ち返ることから、新しく生き直す道へと招かれていることに感謝をもって祈るものとされたい、そう願います。「良い」「美しい」と全面的に神の言葉によって肯定されているのですから、知恵や希望が引き起こされて行くに違いないと信じることはできるはずです。混沌と破壊、絶望という暴風の満ちているところに向かって、今も神は働き続けており、創造の業は続いているに違いないのですから。世界の一人ひとりすべてが、神の愛する慈しむ神の作品なのだとの信仰によって、新しく生き直す道へと招かれているのです。

« 2023年4月 | トップページ | 2023年6月 »

無料ブログはココログ