マタイによる福音書 28章16~20節 「世の終わりまで」
主イエスの愛によるへりくだりと謙遜は、インマヌエル・神は我々と共におられる、ということです。このことを根拠にして「わたしは世の終わりまで」という約束のうちにわたしたちは歩んでいくのです。それは、生前の主イエスの生き方や言葉に倣う生き方を選ぶということです。主イエスは、他者に仕えるというへりくだりと従順において自らを捨てていく主イエスなら、今わたしのいる立ち位置でどのような判断をし、行動するのだろうかと思いめぐらせながら歩むことです。それは聖書と祈りによって導かれてのことです。このような生き方が広い意味での「弟子となる」ことです。そのようにして、人と人との支え合いとしてのつながりは、共にいてくださる主イエス・キリストによって守られているのです。復活の主イエスは、いついかなる時も共にいてくださいます。今は直接見ることも触れることも許されてはいません。ただ、聖書の証言する生前の主イエスの言葉と振る舞いとしての教えを今のこととして、すでに共にいてくださる主イエスの聖霊の導きがあるのです。
讃美歌21の533番に『どんなときでも』という題の歌があります。こんな歌です。
1 どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛をしんじて。
2 どんなときでも、どんなときでも、幸せをのぞみ、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛があるから。
この歌をわたしは実はあまり好きではありません。つい、くじけたっていいじゃないかと思ってしまうのです。しかし、作詞者の高橋順子さんが骨肉腫との苦しい闘病生活の中で7歳という短い生涯を終えて天に召されていく途上での言葉であったことを知り、少し印象が変わりました。くじけそうになる小さな子どもが必死に主イエスの愛に生きようとする姿があることに気づかされたからです。
「世の終わり」とは、文字通りには「この世の終わり」を意味します。しかし、わたしたちのこの世でのいのちの終わりであると読むこともあながち間違いではないかもしれません。この世の後のいのちにおいても、もちろん、主イエスは共にいてくださるのでしょうが…。
わたしたちもまた、それぞれの重荷を抱えており、人知れず涙し、自らの弱さにくずおれることもあるでしょう。しかし、そこにこそインマヌエル・神が我々と共におられるという事実に立つ信仰者としての新しい歩みを求ましょう。
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