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2023年4月

2023年4月30日 (日)

エフェソの信徒への手紙 2章14~22節 「十字架のもとで」

 この手紙は、「敵意という隔ての壁」の廃棄を語りかけています。「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とは、自分たちこそが優位にあり、他の民族を差別しても構わないという考えをやめさせたのが十字架であったと展開しているのです。「二つのものを一つにし」と「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて」という言葉の方向性は、「強制的同一化」「強制的均一化」という、あるイデオロギーや宗教やものの考え方や価値観を統一していくことではありません。その人たちの違いを違いとして受け入れ合っていくあり方のことです。相手の丸ごとのいのちのあり方をそのままで全面的に認めていくことです。違っていて当たり前というおおらかさを身に着けていくことです。

 お互いに平等で水平の関係を築き上げていくかなめ石は、イエス・キリストにあるのだというのです。この十字架に磔られているのが、「敵意という隔ての壁」を作り出してしまう暗い情熱なのです。今自分たちが生かされてあり、暮らしているのは、この十字架のゆえであることを思い出すように促しているのです。十字架とは、人間の能力では言い尽くしえない神の恵みの出来事です。今あるがままのいのちが一切無条件で赦されてしまったのだという現実です。この十字架のもとにいることが告げ知らされることで気づきが与えられることを手紙の著者は知っていたのでしょう。主イエス・キリストの生前の姿、そして十字架。そこにおいてなされたのは、人間の力や能力では知り尽くすことのできない根源的な「罪」の現実を神が一度限りで一切背負うことによって与えられる赦しです。赦されているがゆえに与えられる気づきによって、「敵意という隔ての壁」がすでに取り壊されているのだというのです。十字架を根拠とした気づきから自らを省みながら自己相対化できるのだとの約束を読むことができるのではないでしょうか。暗い情熱によって突き動かされてしまう自らの姿が十字架の光の下で明らかにされていくのではないでしょうか。その時に、他者に対する嫌悪や恐れなどの暗い情熱が消滅の方に導かれていくに違いなのです。

 教会には、十字架のもとでの赦しのゆえに、いつでも気づきが備えられているのだとも信じています。「敵意という隔ての壁」は、教会の内側外側を問わずに存在します。しかし、十字架のもとに立ち続けることによって、歩むべき、生きるべき道は用意されているはずなのです。

 他者を嫌悪し排除し、死にさえ追いやるほどの暗い情熱である「肉の邪悪な欲望」の支配から、十字架の主イエスによって、自由へと招かれているのです。このことへの感謝と賛美と祈りとをもって歩みたいと願います。身近なところから、またこの街から世界希望に至るまで、違いを越えて共存していく道を歩んでいくことに、です。

2023年4月23日 (日)

エフェソの信徒への手紙 4章1~14節 「平和のきずなで結ばれて」

 「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」と言われるところの中心は形ではありません。あくまで「霊による一致」なのです。様々な教派的な伝統や教会の習慣の中にあっても、他者を仲間と受け入れ合うことによって、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し」という、信仰における一致、霊の一致が実現されるのだと信じています。霊による一致というのは人間の側からのものではありません。まことの神であるイエス・キリストによってのみ「一致」が与えられるのです。それぞれが与えられている恵みとしての賜物に応答しながら、それぞれの役割が担われていけばいいのです。教会という具体的なこの世における体の部分を一人ひとりが担いながら成長していくという促しがあるのです。そうは言っても、霊による一致は人間の側から作り出せると誤解して、教会を一つの色に塗りつぶしてしまうという誘惑から自由になることは実際難しいです。人間の側からの「一致」は、「排除」を生み出す危険がることを肝に銘じておきたいものです。

 「一致」しているのは、同じ主イエス・キリストに呼ばれ、招かれ、集められているという事実であることを忘れてはなりません。信仰理解においてもズレやすれ違いは当然起こり得るものと思える心の余裕を持ちたいものです。そのためには、自分の信仰を冷静に見極め、相対化する姿勢を忘れてはならないと思います。教会によっては、社会層やものの考え方や支持政党、あるいは服装や食べ物の好みさえも似たり寄ったりになってしまうこともあるかもしれません。しかし、「一つ」であること「一致」ということは、主イエス・キリストが一人であって、その名のもとにあるわたしたちなのだという認識が重要です。また、教会での「一致」というときに、水平関係を失いたくないとも考えます。言葉や組織に上下や優劣を取り入れてはならないということです。主イエスにある平等感覚から外れるのであれば、支持政党を含むものの考え方は修正していく必要が生じるはずです。

 バラバラなわたしたちが集まってこそ、「一つ」の体を作り上げられるのです。わたしたちは体のあらゆる節々として、互いに補い合うことによって組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛によって人格が作り上げられていくのです。「バラバラをもって一致とする」教会のあり方を良しとしたいと思います。

2023年4月16日 (日)

マタイによる福音書 28章16~20節 「世の終わりまで」

 主イエスの愛によるへりくだりと謙遜は、インマヌエル・神は我々と共におられる、ということです。このことを根拠にして「わたしは世の終わりまで」という約束のうちにわたしたちは歩んでいくのです。それは、生前の主イエスの生き方や言葉に倣う生き方を選ぶということです。主イエスは、他者に仕えるというへりくだりと従順において自らを捨てていく主イエスなら、今わたしのいる立ち位置でどのような判断をし、行動するのだろうかと思いめぐらせながら歩むことです。それは聖書と祈りによって導かれてのことです。このような生き方が広い意味での「弟子となる」ことです。そのようにして、人と人との支え合いとしてのつながりは、共にいてくださる主イエス・キリストによって守られているのです。復活の主イエスは、いついかなる時も共にいてくださいます。今は直接見ることも触れることも許されてはいません。ただ、聖書の証言する生前の主イエスの言葉と振る舞いとしての教えを今のこととして、すでに共にいてくださる主イエスの聖霊の導きがあるのです。

 讃美歌21533番に『どんなときでも』という題の歌があります。こんな歌です。

1 どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛をしんじて。

2 どんなときでも、どんなときでも、幸せをのぞみ、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛があるから。

 この歌をわたしは実はあまり好きではありません。つい、くじけたっていいじゃないかと思ってしまうのです。しかし、作詞者の高橋順子さんが骨肉腫との苦しい闘病生活の中で7歳という短い生涯を終えて天に召されていく途上での言葉であったことを知り、少し印象が変わりました。くじけそうになる小さな子どもが必死に主イエスの愛に生きようとする姿があることに気づかされたからです。

 「世の終わり」とは、文字通りには「この世の終わり」を意味します。しかし、わたしたちのこの世でのいのちの終わりであると読むこともあながち間違いではないかもしれません。この世の後のいのちにおいても、もちろん、主イエスは共にいてくださるのでしょうが…。

 わたしたちもまた、それぞれの重荷を抱えており、人知れず涙し、自らの弱さにくずおれることもあるでしょう。しかし、そこにこそインマヌエル・神が我々と共におられるという事実に立つ信仰者としての新しい歩みを求ましょう。

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