マタイによる福音書 26章47~56節 「友よ」
主イエスはゲッセマネの園の祈りにおいて、自らの逮捕に対して腹を括っていたのです。26章42節の言葉にあるように、です。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」。この「あなたの御心」から照らすと、ユダに対する主イエスの態度が分かってくるのではないでしょうか。
ユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と主イエスを捕えようとする人たちに示しました。主イエスがユダに語る「しようとしていることをするがよい」との言葉を支えているのは「あなたの御心が行われますように」というゲッセマネの園の祈りでの決意です。ですから、ユダに「友よ」と親しげに語りかけることができたのです。ここには、裏切りに溺れてしまっているユダに対する哀しみが込められていたのかもしれません。十字架への道行きという運命に直面しながら、裏切りという仕方で振舞うユダに対しても「友よ」と呼びかける懐の深さと愛とを思わずにはいられません。
しかし同時にユダの心の奥深く、本人さえも気が付かない深みまで見通す愛があったのではないでしょうか。
この主イエスの「友よ」という呼びかけの言葉は、ユダにだけ語りかけられている閉じられたものではありません。手下を切りつけた弟子にも届けられているでしょうし、後に主イエスを知らないと誓うペトロも含め、その場にいた主イエスを取り囲む仲間たちにも広げられていたのかもしれません。決してあなたを見捨てることはしない。どのようなことがあろうと、あなたはわたしにとって「友」なのだとの主イエス・キリストの決意がここにはあるのではないでしょうか。「あなたの御心が行われますように」とは、主イエスの祈りの中で与えられた生き方であり、死に方です。このような方向で「友よ」との呼びかけは、単なる言葉上のことではなくて実を結んでいくものなのだと、ご一緒に確認しておきたいところです。この「友よ」との呼びかけが、ユダだけではなくて、今もわたしたちのところに届けられていることを感謝のうちに受け止めたいと願います。ユダは主イエスに覚えられていることによって救われています。そしてさらに、主イエスの「友よ」という呼びかけが、憎しみ合い敵対する世界中に起こっている悲惨に向かっても届けられ、その働きの終わることのないことを信じたいのです。
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