創世記 2章18~25節 「助け手」
2章21節以下によれば「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」とあります。ここでは「パートナー」「助け手」との関係を基本に据えることの重要性を語っているのです。そして、お互いは、このあり方において祝福されており、響き合う存在へと招かれているということです。「あなた」と呼ぶべき存在が神から与えられたのです。
しかし、この対の関係を、神から備えられたものとして基本に据えながらも、人間はこの祝福を拒み、裏切ってしまう存在でもあることが、続く誘惑物語などからうかがい知ることができます。この対である祝福の「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という関係は永遠不滅ではなく、破れてしまうこともある。「パートナー」「助け手」をありのままに尊重する態度から外れてしまうことがあるのです。根源的には祝福されている対が、実際の生活レベルでは呪いとなり得るのです。
この呪いの状況を祝福へと取り戻すのはイエス・キリストであると教会は信じています。イエス・キリストのゆえに、罪にまみれた呪いの現実が祝福の今へと転じていく途上にあるのだとの宣言として、今日の聖書に聴きたいと思います。「人が独りでいるのは良くない」からこそ、神は「パートナー」である「助け手」を相応しく用意してくださっているのではないでしょうか。死別や悩ましい決別の経験にあっても、祝福の現実は閉ざされてはいかず、希望へと開かれていることを確認することができるのではないでしょうか。「パートナー」である「助け手」のあり方は、「夫婦」という関係だけではなくて、もっと広がりゆくものとして捉えて良いと思います。仕事上のパートナー、あるいは親友。親子関係も保護し保護されるという枠組みだけでなく、対等な「助け手」として相手を受け入れることが求められていると思います。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」との言葉をシンプルに受け止めたいと思います。「あなたとわたし」という対の関係を喜び合う存在へと造られたものであることに中心的なメッセージがあります。わたしたちは人間としての破れに満ちているために、「完全」であるとか「無垢」であるというところからはかけ離れた存在です。しかし、それでも対の人間の創造において神の祝福の確かさは揺らぐことはないのです。そのために主イエス・キリストの導きのもとで、この対の関係をこれからも育み続けていくことのできる希望が与えられていることを信じることができるのです。
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