マタイによる福音書 27章32~44節 「十字架の上で」
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」。罵りと軽蔑の声が主イエスを取り囲みます。主イエスは十字架の上にいるままです。十字架から降りなかったのは、あえてしなかったのではなくて、実際にできなかったのです。これはつまり、できないほどにまことの人間になっていたからです。これほどまでに神の人間性を貫かれたのです。
ここには、共にいようとするインマヌエルという意志が貫かれているのではないでしょうか。十字架上での弱さの極みにある姿こそが「インマヌエル=神は我々と共におられる」を思い起こすことへと導くのです。
主イエス・キリストは、呪われ殺されていきました。この主イエス・キリストに躓くのか信じるのかが、わたしたちに向かって問いかけられているのです。わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を引き受け、主イエスが十字架上であがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。
悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による死によって、その死の姿からいのちへの招きへと逆説的に祝福へと招かれている事実に立つところに、わたしたちは今、生かされているのです。
パウロは、Ⅱコリント13:4で次のように述べています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」
主イエス・キリストは、あの十字架の上でまことの人としての弱さの極みにおられます。その十字架が、わたしやあなた、そしてわたしたちと共にいたいという願いであり、その実現であるということを心に刻み、インマヌエルが十字架においてなされている事実を感謝したいと願います。低みの極みとしての十字架において、すべての人間の逃れられない闇である根源的な「罪」を主は担っているのです。このことを貫くことによって、わたしたちが水平な関係としての仲間になる、ということが事実なされたのです。
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