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2023年3月

2023年3月26日 (日)

マタイによる福音書 27章32~44節 「十字架の上で」

 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」。罵りと軽蔑の声が主イエスを取り囲みます。主イエスは十字架の上にいるままです。十字架から降りなかったのは、あえてしなかったのではなくて、実際にできなかったのです。これはつまり、できないほどにまことの人間になっていたからです。これほどまでに神の人間性を貫かれたのです。

 ここには、共にいようとするインマヌエルという意志が貫かれているのではないでしょうか。十字架上での弱さの極みにある姿こそが「インマヌエル=神は我々と共におられる」を思い起こすことへと導くのです。

 主イエス・キリストは、呪われ殺されていきました。この主イエス・キリストに躓くのか信じるのかが、わたしたちに向かって問いかけられているのです。わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を引き受け、主イエスが十字架上であがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。

 悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による死によって、その死の姿からいのちへの招きへと逆説的に祝福へと招かれている事実に立つところに、わたしたちは今、生かされているのです。

 パウロは、Ⅱコリント134で次のように述べています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」

 主イエス・キリストは、あの十字架の上でまことの人としての弱さの極みにおられます。その十字架が、わたしやあなた、そしてわたしたちと共にいたいという願いであり、その実現であるということを心に刻み、インマヌエルが十字架においてなされている事実を感謝したいと願います。低みの極みとしての十字架において、すべての人間の逃れられない闇である根源的な「罪」を主は担っているのです。このことを貫くことによって、わたしたちが水平な関係としての仲間になる、ということが事実なされたのです。

2023年3月19日 (日)

マタイによる福音書 26章69~75節 「ペトロの涙の味」

 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と語ってからそれほど時を経ず、ペトロは大祭司カイアファの屋敷の中庭で、「一人の女中」「ほかの女中」「そこにいた人々」から次々に、あのガリラヤのイエスと一緒にいた人だと指摘されます。指摘される度に「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言い、「そんな人は知らない」と「誓って打ち消した」さらには「呪いの言葉さえ口にしながら」とあります。ここにはペトロが主イエスを知らないという言い方や態度がより強く、より激しくなっていくことが読み取れます。

 「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」との主イエスの言葉を思い出して「外に出て、激しく泣いた」のペトロの涙の味はどのようなものであったのかを思うのです。味としては客観的にはそうでしょう。知らないと言うだろうと予告した「イエスの言葉を思い出した。」とあるのは、その言葉それ自体のことに留まらず、かつて共に過ごした活動の日々、さらにはその場の空気感や雰囲気、一緒にいるという喜びや充実感や感謝や祈りやつながり、自分が見守られている平安。これらが一気に押し寄せてやってきたのではないでしょうか。しかし、これら自らの存在根拠が破れてしまったのです。自分の愚かさとか弱さに対する後悔とか無念さしかありません。一人の破れた惨めな姿です。主イエスを知らないと言ってしまうことは、どのように言い繕ったとしても取り返しのつかない出来事です。豊かな日々を自分の弱さで台無しにしてしまったという慙愧の念。それが涙の味になってしまっていたのではないでしょうか。ペトロは泣く度に、この自分の弱さを味わってしまう。しかし、復活の主イエスと出会うことによって、さらにそこに喜びと感謝の味が加わっただろうことが、後のペトロの様子から伺われます。

 ペトロの姿は、わたしにとって他人事だとは思えません。このペトロの「知らない」という姿に示される弱さや惨めさは、ペトロと何が違うのかと問いかけ迫って来るのです。しかし、涙の味はペトロが自らで捉え返していくことによって、悲しみや後悔や懺悔から復活の約束において喜びに向かう感謝の涙に変えられていく希望を知らされるのです。この意味において赦されてある存在であることは揺るぐことはないのです。

2023年3月12日 (日)

マタイによる福音書 26章47~56節 「友よ」

 主イエスはゲッセマネの園の祈りにおいて、自らの逮捕に対して腹を括っていたのです。2642節の言葉にあるように、です。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」。この「あなたの御心」から照らすと、ユダに対する主イエスの態度が分かってくるのではないでしょうか。

 ユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と主イエスを捕えようとする人たちに示しました。主イエスがユダに語る「しようとしていることをするがよい」との言葉を支えているのは「あなたの御心が行われますように」というゲッセマネの園の祈りでの決意です。ですから、ユダに「友よ」と親しげに語りかけることができたのです。ここには、裏切りに溺れてしまっているユダに対する哀しみが込められていたのかもしれません。十字架への道行きという運命に直面しながら、裏切りという仕方で振舞うユダに対しても「友よ」と呼びかける懐の深さと愛とを思わずにはいられません。

 しかし同時にユダの心の奥深く、本人さえも気が付かない深みまで見通す愛があったのではないでしょうか。

 この主イエスの「友よ」という呼びかけの言葉は、ユダにだけ語りかけられている閉じられたものではありません。手下を切りつけた弟子にも届けられているでしょうし、後に主イエスを知らないと誓うペトロも含め、その場にいた主イエスを取り囲む仲間たちにも広げられていたのかもしれません。決してあなたを見捨てることはしない。どのようなことがあろうと、あなたはわたしにとって「友」なのだとの主イエス・キリストの決意がここにはあるのではないでしょうか。「あなたの御心が行われますように」とは、主イエスの祈りの中で与えられた生き方であり、死に方です。このような方向で「友よ」との呼びかけは、単なる言葉上のことではなくて実を結んでいくものなのだと、ご一緒に確認しておきたいところです。この「友よ」との呼びかけが、ユダだけではなくて、今もわたしたちのところに届けられていることを感謝のうちに受け止めたいと願います。ユダは主イエスに覚えられていることによって救われています。そしてさらに、主イエスの「友よ」という呼びかけが、憎しみ合い敵対する世界中に起こっている悲惨に向かっても届けられ、その働きの終わることのないことを信じたいのです。

2023年3月 5日 (日)

創世記 2章18~25節 「助け手」

 2章21節以下によれば「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」とあります。ここでは「パートナー」「助け手」との関係を基本に据えることの重要性を語っているのです。そして、お互いは、このあり方において祝福されており、響き合う存在へと招かれているということです。「あなた」と呼ぶべき存在が神から与えられたのです。

 しかし、この対の関係を、神から備えられたものとして基本に据えながらも、人間はこの祝福を拒み、裏切ってしまう存在でもあることが、続く誘惑物語などからうかがい知ることができます。この対である祝福の「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という関係は永遠不滅ではなく、破れてしまうこともある。「パートナー」「助け手」をありのままに尊重する態度から外れてしまうことがあるのです。根源的には祝福されている対が、実際の生活レベルでは呪いとなり得るのです。

 この呪いの状況を祝福へと取り戻すのはイエス・キリストであると教会は信じています。イエス・キリストのゆえに、罪にまみれた呪いの現実が祝福の今へと転じていく途上にあるのだとの宣言として、今日の聖書に聴きたいと思います。「人が独りでいるのは良くない」からこそ、神は「パートナー」である「助け手」を相応しく用意してくださっているのではないでしょうか。死別や悩ましい決別の経験にあっても、祝福の現実は閉ざされてはいかず、希望へと開かれていることを確認することができるのではないでしょうか。「パートナー」である「助け手」のあり方は、「夫婦」という関係だけではなくて、もっと広がりゆくものとして捉えて良いと思います。仕事上のパートナー、あるいは親友。親子関係も保護し保護されるという枠組みだけでなく、対等な「助け手」として相手を受け入れることが求められていると思います。

 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」との言葉をシンプルに受け止めたいと思います。「あなたとわたし」という対の関係を喜び合う存在へと造られたものであることに中心的なメッセージがあります。わたしたちは人間としての破れに満ちているために、「完全」であるとか「無垢」であるというところからはかけ離れた存在です。しかし、それでも対の人間の創造において神の祝福の確かさは揺らぐことはないのです。そのために主イエス・キリストの導きのもとで、この対の関係をこれからも育み続けていくことのできる希望が与えられていることを信じることができるのです。

 

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