創世記 11章1~9節 「人間の欲望を神は‥」
バベルの塔の物語は、「一つの民」「一つの言葉」としての価値観を神が退け、言葉の通じない混乱(バラル)へと導かれるという物語です。ここには審きしかないのでしょうか。
わたしたちは、安易に「一つの民」「一つの言葉」に依り頼んでいれば安心だとか意思が通じ合うとか思いがちですが、それはただ単に合言葉や符牒などの幻想を共有しているにすぎないのです。どこかで本音を隠して相手に合わせるような言葉を選んでしまうことも多いでしょう。「強制的同一化」という側面も忘れてはなりません。自由に生きるためには、自分の言葉を自分の心に正直な仕方で紡ぎ出していくことが必要なのではないでしょうか。かの「聖霊降臨」にあずかった先輩たちが堂々とガリラヤ訛りで語った言葉が聖霊の助けにより通じていった出来事と、バベルの塔の物語は対をなしています。
この時代も一つのバビロンであるという実感は、技術革新などの急激な発展や発達の中で感じてらっしゃると思います。神のようになりたい、有名になりたい、というバベルの塔の現実は世界中にあふれています。だからこそ、散らされる混乱というバラルを、恵みとしてもう一度与る道が備えられていることを信じることができるのではないでしょうか。
神によって挫折させられたバベルの塔の物語が神からの恵みの物語として受け止め直されていくならば、より豊かな関係性に基づく世界が、僅かでも、わたしたちに近づいてくることが知らされつつあるのではないでしょうか。確かに、バラルの民であるがゆえに、同じ日本語を使う場合でさえ、わたしたちは言葉の通じなさを感じます。どうしてわかってくれないのか、言葉の使い方が下手なのだろうか、などなど悩みます。悩んでいいのです。通じない言葉、混乱させられているバラルな言葉の世界にあって、それでも聖霊の助けによって支えられていることに信頼していけばいいのです。バベルという「一つの民」「一つの言葉」から、バラルという混乱ではあっても自分が自分になっていく言葉の獲得を選び取っていくことを求めつつ歩んでいきたいのです。この混乱というバラルの方向性にこそ、主イエスにおいて実現した自由への道は用意されているはずだからです。
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